がちゃっ 1

僕は、そのドアの前で冷や汗を浮かべていた。
濃いピンクに塗られて、格子のへこみが装飾としてある、洋風のドアだ。
「ごくっ……」
生唾を飲み込む。後ろ髪からしたたった汗が、ワイシャツの襟にこぼれる。
僕はなかなか動けない。ただでさえない時間が、いたずらに過ぎる。
その、しんちゅう色のドアノブに伸びた手が、触れては戻り、触れては戻り……を繰り返す。早く、このドアをくぐらなければいけないのに……

僕がさっきからちゅうちょしているこのドア。
社長室への扉でもなければ、監獄へのそれでもない。
どこの部屋への扉でもない。いや、どこへでも行けるドア……その名もズバリ、『どこでもドア』だ。
そう、アレだよ。未来からやってきたという、青くて丸くて2頭身の、およそ猫を模したとは思えないロボットがポケットから出す、あの『どこでもドア』だ。
じゃあ、僕のいる世界にはそいつがいるのかって? それは違う。あんなのが身近にいた日には、作家の夢枕獏が格闘小説で書くような「ちぃぃぃぃっ!!」という気合いと共に、ローキックの一発でも見舞ってやりたくなる。だって不気味じゃないか。
とにかく本物はいないけど、『もし、あれが現実にあったら?』という空想を抱いた科学者がいた。そして、真剣に研究を始めたんだ。
やがて理論が完成し、実用化に向けて動き始めた。
みんな、あのマンガで育った世代の技術者だ。研究開発への入れ込みようたるや、信じられないぐらいだったらしい。特許やノーベル賞ものの発見が、いくつできたか分からない。僕は、そんなことにまるで興味がない、一介のサラリーマンだけど。
そしてついに、『どこでもドア』は商品化された。
鉄道やバス、飛行機など、輸送に関わる業者は悲鳴を上げた。世界のどこへでも瞬時に行けるのなら、機体のスピードアップや運賃の値下げ競争なんて、何の意味も持たなくなるからだ。『“旅”はもはや死語である!』なんて論調も出た。

「…………」
くだらないことを考えて逃避してるな、と思う。
でも、そうせざるを得ないんだ。
遠くに、電車の通る音が聞こえる。
道からは、大型バスの走るエンジン音。
飛行機の飛ぶ音も聞こえる。

しかしこの通り、実用化がなされても、運送業界には何の変化も起きていない。業績も、全く落ちていない。
理由は簡単。『開けた先がまったくのランダムになる』という、致命的な不具合が見つかったからだ。どうやら、大量生産とコストダウンの為に使った部品の一部が悪かったらしい。
南の島へ行こうと思ってドアを開けたら南極だったとか、愛人が男の家に行こうと思ったら、奥さんの勤め先だった……なんてのはまだいい。
ビーチへ行こうと思ったら深海の底だったり、エベレストの山頂へ行こうと思ったら宇宙空間だったり……と、被害や犠牲者が次々に出た。
世界中総バッシングの中、メーカーの社長は失踪し、今に至るも行方不明だ。
後に残った技術者達は、何とか不具合を解消しようと奮闘した。
しかし、設計の総責任者が、開けた先の……なんと異次元に飲み込まれて死んでしまった。そして、彼しか知らない機密事項という物が多数あったのが不運だった。改良への道は、ぷっつり途切れてしまったのだ。
……というか、業務上の常識として、重要事項はドキュメント化しておけよと思う。オタク的秘密主義は、こういうときに嫌なんだ。
かくて、当初爆発的に売れた『どこでもドア』も、今ではどの家庭でも衣紋掛けになっている。それは、かつてのぶら下がり健康機を思い起こさせた。
いや、もうすでに『どこでもドア』は恐怖の対象だ。
ヤバイ連中の私刑の道具に使われてたり、昔の『どつくぞコラ!』の代わりに『くぐらすぞコラ!』が、一等のおどし文句になってたりするんだから。

「うっ……うううっ……!」
のぞき込んだ左手首、時計の文字盤の上にも、冷や汗のしずくが落ちる。
自分を呪ってみたところで、あるいは責めてみたところで、時間が戻るはずなんて無い。『自分の社員生命が賭かった商談に寝坊した』という事実は動かないんだ。
もう、どうあがいても猶予はない。くぐらざるを、得ない。
「なむさんっ!!」
僕は、信じる全てに祈りながら、その、濃いピンクのドアを開けた。

がちゃっ

……くぐった先は、広々としたビルのエントランスホールだった。
少なくとも、変な異次元や、どこかの最果てというわけじゃないみたいだ。
向こうに、受付が見えた。その上に掲げられた社名は……間違いない! 目的地だ! 僕は、ドアの出口を閉じる処理をすると、受付へと駆け出した。
「恐れ入ります、こちらはディーズ商事ですよね?」
「はい、さようでございます」
「まさか、『ヂィーズ』とか、『ディーヌ』とか、『ジーズ』じゃないでしょうね!?」
「はい。『ディーズ商事』でございます」
突然現れて必死にまくし立てる僕に、受付嬢はこらえきれない笑みをこぼしながら答えた。一度来たことがあるとは言え、やっぱり信用できなかったからだ。でも、どうやら杞憂だったようだ。僕は呼吸と顔を整えて、改めて言った。
「失礼いたしました。わたくし、本日お約束を頂戴しております……」

「うはぁぁーーーー……」
僕は、スーツのままパイプベッドに身体を放り投げた。
商談が成功したんだ。これで、僕の首はつながった。
疑念は最後まで消えなかった。しかし、出てきた相手は予定通りで、話の内容もかみ合っていた。すべて、うまくいった。そして、僕の家もちゃんとあって、そこには誰もいなかった。
「今度ばかりは、こいつに感謝しないとな……」
僕は、部屋の隅にあるピンクの扉に目をやり、その晩は、買って以来の手入れをしてやることにした。
「だからといって、調子に乗って使いたくないけど……ははっ……」
僕は、苦笑いをしながら部屋拭き用の洗剤を戸棚から出した。

安堵の余韻は、その後数日続いた。
いつも巻き込まれる殺人的な通勤ラッシュも、穏やかな気持ちで受け入れられるから不思議だ。
電車の中は、汗と加齢臭――つまりオヤジ臭さ――と化粧品で、いつも凄まじい熱気と臭いだ。それでも、慣れと気分の良さが、僕の嗅覚その他を麻痺させている。
「……んっ……うぅん……」
ふと、甘ったるい女性の声が聞こえた気がした。
そんなのを聞けば、いやがおうにも休眠中の感覚はよみがえる。くわっと開いた目で、あたりを見渡す。
「(……あれかな……?)」
視線の先には、同じく紅潮した顔で、息を荒げる男性客が一人いた。女性からは、4,5メートルは離れている。
思うに、SMの羞恥責めの一環だろう。とすると、あの女性の股間に埋まっているのは、ピンクローターかバイブだな。そして、男はリモコンを握っていて、痴態に興奮しているのに違いない。
「あ……んあっ! あっ! はあんっ……!!」
「んおぉっ……!」
やがて、押し殺してはいるけれども、同時に果てる声がした。男の方も手でしごいていたんだろうか? じゃあやっぱり、あらかじめコンドームを着けていたんだろうか? いずれにせよ、同時にイケるのはうらやましいかもしれない。
「(……朝っぱらから、何を考えてるんだ? まったく……)」
溜まってるんだろうか? でも、風俗に行くにはちょっと手持ちが心許ない。もうしばらくの辛抱かな……
そんな欲求不満を抱えながら、僕は電車を降り、職場へと向かった。

そして、今日はいよいよ給料日! という、最も嬉しい朝、事件は起こった。
いつものように、僕はすし詰めの満員電車を物ともせず、じっと目的地までを過ごしていた。
不意に、どこからか視線を感じたんだ。周囲を見渡してみたけど、誰の足を踏んでいるわけでもなし、まして、過去に人の恨みを買った憶えもない。いぶかしみながら、さらに視線を巡らせて……僕は、その主を見つけた。
なんとそれは、一人のOL風の女性だった。かなりの美人だ。願わくば、僕の半径50センチにいて、身体を密着させていたい。そして、何かのどさくさに紛れたい。そう思うような顔立ちだった。
「……??」
でも、僕はさらに不思議だった。そんな女性が、自分に色目を使っているんだ。
それはもう、電車の窓から差し込む午前の光を、気の早い黄昏にして僕に返す目の潤みであるとか、深夜のバーで傾けるグラスに入った真っ赤なスロージンを思わせるほどに妖しく濡れ光る唇であるとか、その間から漏れる吐息、巣から顔を出した水棲生物を思わせる白い歯とぬめった舌……
もしここに僕と彼女しかいなかったら、僕は迷わず彼女を押し倒し、犯しているだろう。文句を言うような唇ならキスでふさぎ、いつもの駅についても決して離さず、電車が車庫に入っても、その中で延々セックスしてやるだろう。
いや、今この時点で、僕はいつもの駅を乗り過ごす覚悟でいた。一緒の駅で降りて追いかけ、絶対一言声を掛けてやる。あの娘を口説けるなら、会社なんて、くそくらえだ。そんな無茶な決意をさせるほど、きれいだったんだ。
「…………」
僕は、何度も生唾を飲み込みながら、その時を待った。
やがて、僕が降りるべき駅に着いた。なんと、彼女も同じらしい。
やった! 僕は、小躍りしそうなぐらいに喜んだ。
しかし……
「……そんなぁ……」
期待に輝く僕の顔を見て、残念そうな声を刻む、彼女の濡れた唇。続いて、がっくりと肩を落とす。
「あっ……!?」
そしてそのまま、別の人並みに紛れて電車を降り、見えなくなってしまった……。