クリスマスソングが流れる街を、僕は、空っぽの頭で歩いていた。
何かショッキングな出来事があったとか、そんなのじゃない。僕自らが、僕の頭を空っぽにしているんだ。
何も考えたくない。考えちゃいけない。何も考えないで、ただ日々をデクのように過ごしていれば、いずれ、すべては収まるだろう。この胸騒ぎさえ収まれば、僕はまた、平穏なプー太郎でいられる。没個性の、気楽な、その他大勢でいられる。クリスマスの浮かれた空気を楽しみながらも、隣に誰もいない事を理由にクリスマスがこの国で祝われることについての意味を疑問視してみたり、一夜限りの享楽を求めて、犯罪者も裸足で逃げ出すような周到な計画を一年前から夢想してみたり、その実現しそうにない計画を友人に自慢し合って悦に入るような……そんな他愛のない、普通の生活が出来る。そう信じていた。
……いや、『信じたかった』と言うべきだろう。
実際は、それがおそらくかなわぬ物であろう事を、僕はもう知っていた。
胸を騒がす『予感』の強さが、これ以上なく強まっていたからだ。
『そいつ』は、僕の全身の細胞から来る叫びのようだった。いくら僕の脳が『そいつ』の存在を否定しようとも、『そいつ』は僕の中から消えてくれない。もう、そこまで来ているようだった。
「思い詰めてちゃもたないよ」……僕の耳が気を利かせて……いや、それすら何かの罠かも知れないが……町中を流れるクリスマスソングへ意識を払わせた。
それは、よく知られた古典の歌だった。
『サンタが町にやってくる』
気をつけて 泣くまえに
ふくれっ面するまえに だって
サンタさんが町へやってくる
サンタさんは名前のリスト作って それを二度チェックしてるよ
だれがいい子でいけない子か、分かってるよ
サンタさんが町へやってくる
サンタさんはちゃんと見てる みんなが寝てるときも、起きてるときも
いい子だったか、いけない子だったか
だからいい子でいようね いいことが待ってるもの
オ、気を付けて!泣くまえに
ふくれっ面するまえに だって
サンタさんが町へやってくる
(訳詞:野上絢「クリスマス・キャロル」)
世間一般には、楽しい、無邪気な歌だ。だが、僕の耳にはそうは聞こえなかった。『リストを作っている』……この節が、残響を伴って鼓膜を振るわせる。
リスト。一番最近、あの『露出狂の世界』に僕を導いたトレンチコートの女性が言った言葉を連想させる。彼女は言った。『逃がさないわよ、せっかくの“餌”ですもの……』と。
餌。何の、だ? わからないが、そういう風に、本人の意思を無視して、選ばれた人間が他にいるのかもしれない。サンタだかカミサマだかなんだか知らないが、そういうリストを作って、どっかの空の上、にやけた顔で眺めてるんじゃないだろうか? ……もちろん、そこには僕の名前があるんだろう。
これが『運命』ってやつなのか?
それなら、僕はそんな運命なんていらない。まっぴらごめんだ!
……でも、今僕を突き動かしている……じっとしていたいのに、このイブの街を歩かせている……その『力』には、どうにもあらがえそうにない。
もういい。好きにしてくれ……。こう諦めさせることさえも、あるいは『運命』かもしれない……ああ、考えるのがじゃまくさくなってきた……でもそれさえも……
ぼむん
「あっ……」
うつむいて歩いていたら、誰かにぶつかってしまった。すごく豊かな、女性の胸の感触だった。
その彼女を見上げて……
「はあい♪」
「………………」
僕は、全身の毛が凍り付くのをハッキリと感じていた。
そこには……薄紫のトレンチコートに身を包んだ、黒髪の、あの女性がいたんだから……。
「探したわよ、ボーヤ」
「あはっ……あははっ……」
僕の中、音を立てて何かが崩れていく。
へたり込む僕の手を取り、彼女は、ラブホテルの中に入っていった……。
『この世界』での僕の墓場は、あそこのようだ。
◆ ◆ ◆
「おーっす! 毎度、ウッチー」
「まいど! トミー」
5分前にはお互い待ち合わせ場所にいるのも、いつもの習慣だ。部活で『時間厳守』をみっちり教え込まれたから、そのせいかもしれないが。
俺は「んじゃ、行くかね」と言いながら、ウッチー共々、チラシに書かれていた教会へと向かうことにした。しかし……こんな所に教会なんてあったっけかな? どうにも覚えがないんだが……まあ、あまり行く機会のないところだからな。気を止めなければ、人間の記憶力なんてそんな物かもしれない。
「しかしトミーよ、今さらだが……やっぱりこの時期の街ってのはクリスマス一色だな」
ほとんど慣用句のようにウッチーが言う。
「まあ、いいじゃないか。にぎやかで、楽しい雰囲気なんだから。たとえば……」
「うん?」
こっちも半ば定型の文句を答えにしながら、俺はちょっと立ち止まった。街を流れるクリスマスソングに耳を傾けてみる。
Silent night! Holy night!
All is calm, all is bright,
Round yon Virgin Mother and Child.
Holy Infant, so tender and mild.
Sleep in heavenly peace,
Sleep in heavenly peace…….
「『きよしこのよる』か。定番の歌だよな」
「ああ。でも、いい歌だ。シンプルで、韻もいい」
「そうだな……」
「信仰の気持ちがこもってる……と言うと、言い過ぎかな? でもやっぱ歌ってのは、かくあるべきだと俺は思う。芝居のセリフもしかりだ。どちらもまず耳に心地よい文節の響きを持つべきであって……」
それから俺は、偏屈な歌謡曲批評をしながら歩いていった。
◆ ◆ ◆
宗教的な行事というのは、あなどれない。……俺は常々そう思っている。
世界では、宗教が原因で様々な事件が起き、国同士の争いが起き、戦争にまでなる。宗教は、人の根幹を成す、重要な要素と言えるだろう。
俺達の国には、宗教はない。いや、あるのだろうが、チャンポンもいいところだ。神道の神棚と仏教の仏壇が同じ部屋にあり、冬になればクリスマスツリーを飾る。神道と仏教に関しては、歴史上そういった風潮があったし、いいだろうと思う。
だが、クリスマスだけは、いつも納得が行かない。俺達の周りで祝うクリスマスに、真の意味での「祝い」はない。ただ、「何となくロマンチック」……それで終わっている。この国でクリスマスはいわば「強制ロマンチック装置」でしかない。
……まあ、どれほど憤ってみたところで、「要するに寂しいんだろ?」という冷やかしがくるのは分かり切ってるんだが。
しかし、最近は違う。ひろひろほ、りふふほひえっへみはほこおえ……
「むにぃー……ん……! 潤一さん、何一人でうなってるの?」
赤々とストーブを付けた部屋の中、こたつに入ってうなる俺の頬が、思いっきりつまんで引っ張られる。間抜け面を上げた先には、不思議そうに俺を見つめる目が二つ。
「うーひ、はあひへふえ……」
「へへえ……潤一さんのほっぺたおもしろーい! にゅいーん……!」
「はが……やえおっえいっえうあお……!」
「あ、ごめんごめん……」
「ふう……」
そう。こいつと出会ってから、俺の中でのクリスマスは、はっきりとした意味を持ち始めた。……なんてったって、こんな『奇跡』を目の当たりにしちゃ、信じないわけには行かない。どの宗教の神であるかなんて事は関係ない。ただ、神の存在を否定することは、こいつ……ゆーきの存在を否定するに等しいことだということははっきりしてる。
だから、今の俺にとって、クリスマスは……誕生日以外に、ゆーきに出会えたことを神に感謝する、大切な日になっているんだ。
「準備終わったよ!」
「んじゃ、行くか!」
「うんっ!!」
イブの夜。完璧な冬の装いを済ませた街を、二人で歩く。
右腕には、人一人分の重石が、がっちりとぶら下がっている。正直、暑苦しいわ肩が抜けそうだわで、かなり歩きにくい。
だが、それでも俺は嬉しかった。安堵感でいっぱいだった。
修羅場が終わり、有休が取れたんだ。今日から三日のために、俺はスケジュールを極限まで詰め込んだ。こいつに全く構ってやれず、時には存在さえ忘れかけ、なかば無理矢理勝ち取った休暇だ。嬉しくないはずはない。
「んふふふふぅ……」
ゆーきも余程嬉しいらしい。朝からずっと、顔が緩みっぱなしだ。それはもう、えびす様も裸足で逃げ出すだろう程に。加えて、歩きながらも腕に頬ずりとかを遠慮無くしてくる物だから、俺としてはちょっと恥ずかしかったんだが……こいつの場合は、全てが許せる。
「ねえマサキ、みてみて、あの娘! かっわいー!」
「あっ、ほんとだなあ……」
「ウフフフフッ……」
「アハハハハッ……」
道行くカップルが、俺達に向けて穏やかな笑みを向ける。ゆーき単体でのちんまりとした可愛さもそうだが、今日は着ている服がすごい。白いふわふわの縁が着いた赤いコートに、同じカラーリングとデザインのスカート、靴。頭には、とんがり帽。そう。完璧なサンタスタイルなのだ。ついでに言うと、どこかの店のバイト服とかと違って、ちゃんとした既製服だ。冬物衣類の中でも極めつけの期間限定物。だが、俺は買った。
「(だって……なあ……)」
そう。俺が言うのも何だが、似合っている。可愛い。反則的なまでに。
「メリークリスマス!」
そんなゆーきが、注意を向けてくれた人全てに、元気いっぱいの声をかける。かけられた人も最初は驚くが、すぐに満面の笑みで「メリークリスマス!」と返してくれる。……それは、一言ごとに街の空気がどんどんと暖かくなっていくような、ほのぼのとした光景だった。
「……ん?」
そこで俺は、見知った男の二人連れを見かけた。向こうも俺達に気付いたらしい。
「よお、潤一にゆーきちゃん!」
「うぃーっす、お二人さん」
「おっす! トミーにウッチー」
「メリークリスマス! トミーさん、ウッチーさん!」
この二人、トミーとウッチーは、大学時代の同級生。部は違うが、同じ文化系クラブということで、何かと親交があった。それは卒業後も薄れることなく、今に至るというわけだ。
「おめっとさん。今年も、有休は死守できたみたいだな」
喜色満面の俺を見て、小太りなトミーのたらこ唇が、苦み混じりににっこり笑う。返して俺も言った。
「なんとかな。今、時間を取り返してる最中だ」
「あーあ、熱い熱い。うらやましいねぇ……」
「友部とゆーきちゃんは、それが許せるあたりがなおずるい気もするけどな」
そこへ、ウッチーの少し高い声。骨張った顔の眼鏡が、やはりにっこりと笑う。
「ところで、おまえらはどこ行くんだ? なんか芝居でもやるのか?」
「ビンゴ。あたりだよ。なんか、教会でやるんだとさ」
そう言って、トミーは一枚のビラを俺に見せてくれた。深紅の紙に銀のインクで書かれたそれは、いかにもコイツ好みだ。俺はあまり興味がないから、タイトルまでは見なかったが。
「まっ、タダだってんでな。暇つぶしにゃよかんべ……ってとこさ」
「なるほどな」
「おっと、あんまり邪魔すんのも悪いな。俺達ゃもう行くわ」
「またな、友部、ゆーきちゃん」
「はーい!」
「ガンバレよ、いろいろな……」
「はははっ……」
最後に肩をバシン! と叩かれ、俺は二人と別れた。
「ねえねえ潤一さん」
「ん?」
「ボク、今度お芝居観に行きたいな!」
「……そうだな。じゃあ、何観るか、今度ゆっくり決めようか」
「うんっ!」
お勧めの芝居をトミーに訊いてみたいところだが、あいつの好きな芝居はどうにも難解だ。だから、もっと純粋に楽しめる奴のほうが良いな……そんなことを考えながら、俺はまた歩き始めた。
超拡大版のデートは、今から夕食。だが、まだまだほんの序の口だ。