We Wish…… 1 12月5日 日曜日

光かがやく天使のしずく
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「おわぁぁぁーーーーっ?!」
ごうごうとうなりを上げて、俺の頬に無慈悲なビンタをくれる風。その透明な剛腕は、俺の耳を見つけるや、そこからにゅるりと忍び込み、目玉だか三半規管だか脳味噌だかを、とにかくしっちゃかめっちゃかにかき回してくれる。

ごごごごごごぉぉぉぉーーーっ!

「ひえぇぇーーーーっ!」
いくら叫んでも、その腕の主にはてんで聞こえない。そういうもんだ。実は俺も分かってる。しかし、叫ばずにはいられないのだ。
「あわーーーーーっ!!」
「きゃはははははっ! わーーーいっ!!」
……と、幾度目かの悲鳴に、隣から楽しそうな声が重なった。
この、まるで、ごく狭い密室の床に力一杯テニスボールを叩き付けたように予測できない動きで我が身をなぶられる状態を、楽しむ奴がいるだと?! パニックを起こしている俺の思考は、その声の主に対して、感嘆を通り越して異様ささえ感じてしまっていた。
「わーーーっ! わーーっ!! うわーーーーっ!!!」
そんな思いも、抱いたのはほんの一瞬。すぐに俺は、感嘆符しか言わない単純機械と化した。
「わぁお! うわぁぁーーおっ! あはははははっ!!」
隣から聞こえる歓声は、なおもその輝度を増す。……悪いが、俺にはとうてい理解が出来ない。

ごんごんごんごんごん……

やがて、音がゆっくりと途切れ始めた。俺を散々責めさいなんでいた風の剛腕は、急速にその筋肉を落とし、あたかも乙女の手のひらのように俺の顔を慈しみながら撫で、耳へも『ごめんなさいね』と言いたげな囁きを送る。
だが俺は、そんな風の意識なんぞ、それこそ上の空だった。ただ、今現在、己があの忌まわしい束縛から解放され、地面に再び立っている……という喜びを噛みしめていたのだ。
そんな抜け殻のような俺の触覚……右腕に、やおら、暖かく柔らかな感触が巻き付いてきた。
「あーっ! 楽しかったね、潤一さん!!」
俺の腕に、ぶら下がり気味にぎゅっと抱きつき、腹の底から嬉しそうな声を出す、あどけない少女。そのぬくもりに、俺……友部潤一は、ようやく現実世界に戻って来ることができた。
「……いつも思うんだが、よく平気だな、ゆーき……」
「うん! 全然へっちゃらだよ! すぐにでももう一回乗りたいよ!」
「…………それは勘弁してくれ」
こいつの願いを聞いてやりたいのはやまやまだが、はっきり言って俺はもうダメだ。今またさっきのジェットコースターに乗れば、あの風の剛腕に、今度は耳から脳髄を持って行かれそうな気がする。
「潤一さん、だいじょぶ?」
俺の正気を確かめるかのように、くいくいと腕を引っ張るゆーき。お世辞にもふくよかとは言えないが、確かな柔らかさと温かさが、まだしっかりと地上に降り立っていない俺の意識に、穏やかな重石となってぶら下がる。
そうだ、今日はこんな所でへばるわけにはいかないんだ。俺はより意識を奮わせるために、その愛しい重石に声を掛けた。
「……ちょっと一服着こうぜ。ふらつく……から……」
「はーい!」
言い終わるより先に、俺は手近なベンチに崩れ落ちた。

「はあー……」
がっくりとうなだれて、自分自身の血の流れを確認する。
休日の遊園地。あちこちで弾ける歓喜の喧噪の中、どく……どく……どく……と、テンポの速い、だが規則正しい鼓動が、俺を落ち着かせる。
目を閉じ、ゆっくりと息をする。冷たく澄んだ空気を喰い、ほっこりとした白い雪の子にして返す。徐々に、気分が落ち着いてくる。

「……さん……潤一さん……」
意識の空から、俺を呼ぶ声。ふっ……と目覚めた前には、熱い湯気をたたえた紙コップを二つ持ったゆーきがいた。
「潤一さん、コーヒー買ってきたよ!」
「……ああ、さんきゅ……。気が利くな……」
「クリームだけで良かったよね?」
「ああ」
薄手の紙コップから伝わる多少無遠慮な熱さが、冬の寒さと失せた血の気にこごえる俺の手には、かえってありがたい。
「ふー……ふー……んくっ……」
ほのかに甘い湯気をすする声。どうやら、ゆーきのものは砂糖入りのようだ。俺も、それに続けて一口すする。
「ふう……」
この味を、いつも行くヒゲのマスターの喫茶店の味と比較するのは、彼に対してあまりに失礼だ。今手に持つそれはせいぜい、口寂しさをどうにかまぎらわせる程度の代物。だが、今、この遊園地にゆーきといる俺にとっては、何にも代え難い甘露な飲み物だった。
「おいしいね、潤一さん」
少し肩を丸め気味にして、同じく寒さに頬を染めるゆーきが、にこにこと言う。その笑顔はさらなる甘露となって、俺のコーヒーの中にとけ込んでいくようだった。その味に、俺も心底から「そうだな」と答えた。

俺達の頭上には、冬特有の淡く垂れこめた……しかし、澄んだ青空がある。
目を懲らすまでもなく、そこには、様々なアトラクションがめいめいの曲線を描いている。
「なんか、こうやって見てると、箱庭みたいだね……」
俺に身を寄せながら、ゆーきがそんなことを言う。確かに、自分たちがその場にいるにもかかわらず、遠景から眺めるその機械群は、まるでミニチュアのように見える。気の利いた、おもしろいたとえだ。
「んじゃ次は、あの観覧車でも乗るか?」
「わーい! 乗る乗る!」
俺達は、さらにその箱庭を満喫すべく、ゴンドラの二人となった。

今日のデートは、まだまだ終わらない。いや、終わらせない。

◆ ◆ ◆

遠くに遊園地が見える。一種そのシンボルたる観覧車の動きを何となく目で追いながら、僕は師走の雑踏を歩いていた。

街は年の瀬を迎える準備に、どこも慌ただしい。だが、僕はそれどころじゃなかった。とにかく、胸を襲うのは、ある『不安』ばかり。クリスマスや新年の事といった、この時期特有の悩みではない。そして、別に欲求不満があるとか、そういった個人的なことでもない。……何というか、『今、この師走という時期を舞台に、今度はなにが起きるのか?』という『不安』だ。

……これだけじゃ、分からないかな? じゃあちょっと、かいつまんで説明するよ。

『僕』はよく、不条理な世界に巻き込まれるんだ。なんて言うのかな……僕としては、ほんとにささいなきっかけで、とんでもない別世界に迷い込んでしまう。
……一番最近の例だと、そうだな……ある日喫茶店で、トレンチコートだけを羽織った女性に出会った。その彼女は僕の目の前にやってきたかと思うと、にぎわう店内でいきなりオナニーにふけり始めた。僕の手を取り手伝わせ……これ以上ないほど不条理な痴態を作り出した。当然僕はそんな情景に対処できようはずもなく……彼女が達するのと同時に意識を失った。……奇妙なのはここからさ。次に僕が目覚めたときには、彼女はいなかった。僕はてっきり悪い夢でも見ていたのかと思って、周りに目を凝らすと……そこは、全員トレンチコートを羽織った露出狂の世界だった……。

信じられないだろう? でも本当なんだ。大体僕はそこで、セックスに絡んだ事象に巻き込まれる。そして……終わりのない饗宴が続くんだ。それが夢で、そこから覚めたからなのか、あるいは、僕はその世界で死んだからなのか……いまだにはっきりしないけど、次に気がついたときには、僕はまた『ここ』にいるんだ。……やっぱり、はっきりしないかな? でも、僕だってそうさ。今まで何度か、僕はその不条理世界を体験している。『今の僕』が一番不気味だと思ってるのは、自分が、その世界での出来事位一つ一つを、克明に記憶しているって事なんだ。そもそものきっかけが何で、そこでどんな女性とまぐわったか……全部覚えてる。しかも、その時その時では『覚えていなかった』ということまで『知っている』んだ。だからなおのこと恐ろしい。

『まぐわい』と聞いて、うらやましがる人もいるかも知れない。でも、良いと思うのは最初だけだ。今まで3回そういう世界に巻き込まれたが、どれもこれも、終わりのないシーンの繰り返しか、性を搾り取られて死んでまた繰り返すか……のどっちかなんだ。警戒しないほうがおかしいだろう。

僕はほんとうに恐ろしかった。今のこの状態が、また新たな『何か』に巻き込まれる前触れなのかもしれないし、次に気がついたときには、また全てを忘れているかもしれないのだ。できることなら、全部を覚えたまんまの、『今の僕』でいたい。全部を悪い夢で済ませて、親からの仕送りと、日々のバイトで稼ぐ、気ままなプータローでいたい。僕は平穏に暮らしたいんだ。

……でも、どれだけ切に願おうとも、胸をよぎる『嫌な予感』が、今、ある。
『それ』がいつ起きるのか? 10秒後なのか、明日か明後日か、一週間後か、十日後なのか、一月後なのか……分からない。でも、『ばく然とした確信』がある。

僕は、あたかも指名手配中の犯人のような様子で、ピリピリと神経をとがらせながら、静かに静かに、人混みの中を歩いていった。

そうだ。この足下にあるマンホールも、踏んだらそこはどこかに通じる落とし穴かもしれない。そばに見えるあのラブホテルから、突如として得体の知れない何かが出てくるかもしれないのだ。

僕は平穏に暮らしたい。だから今は、できる限りの注意を払おう。
人にぶつかってはいけない、道のおかしな場所を踏んではいけない、何かあっても、気にしちゃいけない……。
うつろな視線に大げさな身振りで歩く僕は、端から見れば立派な狂人だったかもしれない。でも、それはひとえに、僕の必死さのなせる技だったのだ。

そうやって必死の思いでいるというのに、僕はとんでもないものを見た。
人混みの中、トレンチコートの男がいたのだ!
今日は12月5日。初冬とは言え、あの服にはまだ早い。季節はずれのトレンチコート。忘れもしない、あの、地下街での喫茶店を発端にした、露出狂の国…………
「う……ううっ……うわぁぁーーーーっ!!」
僕は逃げた。必死に逃げた。こけつまろびつ、脱兎よりも速く逃げた。
不審に思った人が「変質者だ!」「警察を呼べ!」とか叫んでいるような気がしたが、僕にはどうでも良かった。
「嫌だ! 嫌だ! 嫌だぁぁぁーーーーっ!!!!」
頼むから僕をそっとしておいてくれ。平穏な日々を送らせてくれ……!
僕はひたすら家に向かって叫び、走った。

つづく

 

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