ぽかぽか~立ちション講座・休憩時間 その1

光かがやく天使のしずく
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「うーむ…………」

「どうしたの? 友部さん?」
昼休み。いつも行く定食屋の一件で、日替わり定食を食べながら、俺はしきりに唸っていた。何か悩んでいる風に見えたのだろうか、一緒に喰っている同僚が、心配そうな声を掛けてくる。そいつは、涼しい店内だというのに上着も脱がず、さりとてネクタイの結び目を緩めるでもなく、見るからにきちょうめんそうな顔の目を細めて俺をのぞき込んでいる。

彼の名前は、田中 史也(たなか ふみや)。俺達の同期の中でも、違った意味で風変わりと言えるかも知れない。毎度の事で慣れっこになっているが、端的に言えば、世話焼きで、心配性。西に行き詰まる同僚あれば、行って仕事を手伝ってやり、東に嘆く後輩あれば、進んで飲みに誘ってやる。……と、とかく世話を焼きたがる。それはそれで、俺には真似できない、良いことだとは思うのだが、見ていると、なんだか自分の事をほったらかしているような気さえする。実際、他人の相談に乗っていて自分の仕事が遅れ、係長に怒られている光景をよく見る。しかし、その係長にさえ、『ご気分が優れないようですが、何かお悩み事でもおありですか?』なんて訊いたりするもんだから、火に油を注ぐこともしばしばだ。……まったく、お人好しというか、何というか……。
ま、このせちがらい世の中で、希有なほど良い奴であることは間違いない。ストレス、溜まんねーのかな……。

それはさておき、彼の問いに、俺は重々しい声で答えた。
「いや……すまん。ちょっと、頭が痛くてな……」
そう。別に、今日の日替わり定食のメニューが気にくわないとか、味付けがいつもより濃いだとか、そんな事じゃなかった。単なる頭痛だ。
いや、『単なる』じゃないな。痛みは酷い。左後方の辺りが、別パーツのようにドクドクと脈打っている。たとえるならば、素人のドラムロールか、はたまた、情熱が空回りしている学生ロックバンドの演奏か……と、余計分からないたとえだな。まあどうでもいい。ああ、こめかみまでけいれんしだした。かなり……まずいかもな……。
「ねぇ、ホントに大丈夫?!」
田中の声も、なんだか遠くに聞こえる。やはりここは……
「スマン。やっぱ、調子悪いみたいだ。今日は……俺、帰るわ」
「そうした方が良いよ。夏風邪には気を付けなきゃ」
困ったような顔で、にっこり微笑む田中。それに俺は、力の抜けた苦笑いで返した。

「申し訳ありません。係長。体調が優れませんので、今日はこれで早退させていただきます」
昼休みが終わり、俺は係長の席の前に立って、早退の旨を告げた。
さぁ、係長のことだ。嫌味の一発や二発や三発は来るぞ……そう思った。ところが意外にも、
「あ、そ。そりゃ大変だ。お大事にね」
と、素っ気なさ過ぎる答え。……なんだ、拍子抜けだな? と、思った、ら!
「それでは、失礼いたしま……」
一礼しながら言いかけて、気づいた。奴―やっぱりそう呼ばせて貰うぜ―の視線だ。
これ以上ないと言うぐらいの、ジト目。疑い、不信、軽蔑、嫉妬……それらを全てはらんだような細い目で、俺を睨み付けている。
……コノヤロ、そう来たか。この上、胃まで痛くさせるんじゃねぇ……!

『ところで失礼ですが、係長は、体調を崩されたことが無いんでしょうか?』

喉まで出かかった皮肉をぐっとのみ込み、
「……それでは、失礼します」
改めて一礼してから、席を離れた。

「あー……やれやれ……」
他の同僚に早退することを告げ、今日の分の引き継ぎ―そんな大したもんじゃないが―をすませ、帰り支度をしていたときだ。
「友部さん、友部さん」
別の島から、俺を呼ぶ声があるのに気づいた。誰かなんて、思うまでもない。同僚にまで丁寧に「さん」付けするのは、田中ぐらいのものだからな。
彼の席を見遣ると、ちょいちょいと手招きしている。こっちへ来い、と言うことらしい。
「何だ? 今日の分の引き継ぎなら、他の奴にしたぜ?」
少し離れた田中の席に行き、俺は訊いた。田中は、否定の意味で手を少し振る。
「違うよ。頭、痛いんでしょ? 薬あげるよ」
そして、自分の引き出しから、頭痛薬を二錠、俺に差し出した。
「お、さんきゅ。助かるぜ……」
礼を言いかけて、俺は気づいた。田中の引き出しの中だ。彼らしいと言うべきか、キレイに整理された引き出しに入っていたのは、頭痛薬だけじゃない。胃薬に、栄養剤の小瓶。しかも、結構強力な奴だ。減り具合からして、人に配ってるんじゃないな。自分で飲んでるんだ。

……やっぱり、ストレスを溜め込んでるんじゃねーか……。しかも表に見せまいとする分、余計に苦しいんだろう。
……ったく……他人の前に、自分の身を第一に考えろっての……。

「すまんな。有り難くいただいとくぜ。じゃ、お先」
「うん。お大事にね」
田中、お前もな……と、俺は心で呟いて、会社を後にした。

(たたん……たたん……たたん……)

家までの道のり。当然と言うべきか、電車はガラガラに空いている。いるのは、石のように動かないじーさんばーさんか、汗をしたたらせた外回りの営業マンぐらいなものだ。
俺は、規則正しい線路の音と、流れる景色を、オブラートを介したようにぼんやりした聴覚と視覚に流し込みながら、座席にぐったりと虚脱していた。

頭の片隅を占拠しているヘタクソなロックバンドは、頼みもしないアンコールを繰り返している。なんだか、髪の毛の一本一本にまで神経が通ったようで、ピリピリする。頭の上にちり紙が落ちてきても、激痛に感じそうだぜ……。
あぁ、いつもこの電車に乗るときは、朝の軽い倦怠感か、晩の心地よい疲労感を伴ってだというのに、こんな気分で乗るのは、わびしいなぁ……とほほ……。
嘆いてみたところで仕方ない。耳をふさいでも聞こえてくるやかましい音楽にうんざりしながら、俺はおとなしく電車に揺られていた。



蝉の声がする。夏という季節とこれ以上ないほど結びついたその虫の声は、中から俺の体を蒸すようにさえ聞こえる。 家近くの駅、その声の渦の向こうは、やはり人気は少なかった。店は一応開いてはいるが、ピーク時を過ぎた今は、客足はない。店先にも誰も居ないところを見ると、奥に引っ込んで涼んでるんだろう。生活臭のない町って、寂しいを通り越して、怖いな……。

(さわさわ……)

と、そこへ、街路樹を微かになびかせる風が吹いた。その風は、電車から降りたとたんに吹き出しかけた俺の汗を、さぁっ……と、どこかへ吹き飛ばしてくれる。
「(あぁ、夏でもたまにはこんな日があったんだなぁ……)」
会社にこもりっぱなしで、久しく忘れていた空気の感触。
俺は、いまだにやかましい頭の片隅に、それをしみじみと反芻した。
「(とにかく……帰って寝るぜ、俺は……)」」
『帰って寝る』そのことだけを考えて、俺は、ぞっとするぐらい静かな商店街を、とぼとぼと歩き始めた。

駅から家まで、大体徒歩十分。朝の急ぎ足か、晩の上機嫌な足取りでだと、そのぐらいだ。ただし、今は違う。ずるずると引きずる、鉛のように重い足、そよ風が吹いているとはいえ、それでも眩しい太陽。スーツという物の理不尽性を、これほどまでに痛感することはない。

え? そんなに重症なのかって? いや、そうじゃない。確かに頭痛はある。気分が悪いぐらいにな。ただ、遣る瀬ないのだ。俺の気分が。引き継ぎをすれば済むこととは言え、仕事を途中で放り出したことや、奴―もちろん、係長だ―の態度や何かが、引っかかる。後者は毎度のことだから、すぐに忘れられる。俺にとって問題なのは、前者だ。それなりの仕事しかできない俺だが、それならそれなりのプライドってのがある。何? 社内イメージの問題だろうって? ……ま、それもあるけどな。もう一つついでに言えば、こんなところで有休を半分使ってしまうのも、もったいない。……とにかく、素直に喜べないのだ。

「はぁー…………」
じっとりと重いため息を吐きながら、俺は、ズルズルと家への道を歩いていた。

道のりを半分ほど来たあたりだろうか、公園の前を通りかかった。
いつも忙しく通り過ぎるか、闇に紛れて見過ごしてしまう公園。日差しを反射し、改めてはっきりと見るそこは、まるで、初めて見る風景のように、オブラート越しの目に視界にも鮮やかだった。ただ、中途半端な時間なんだろう。子供の姿もなければ、それにつきそう母親の姿もない。

……しかし思うのだが、公園で遊ぶのに母親連れってのも、不思議な話だ。いや、あれは、母親同士の交流の方が目的だと聞いたことがあるな。それならそれで、なおのことおかしいと思うぜ。そんなに身構えないと、仲間内にも入れないんだろうか? 昔はいきなり訪ねてきて「あーそーぼっ!」で済んだのに……いや、そうなってしまったんだろうな。
子供達もかわいそうだ。親の目があるから、思いきり遊べないんだろうな。……親の目の届かない所で、親が見たら仰天するような、とびっきり面白い『遊び』をやってこそ、健全な子供が育つと思うのだが……。それとも、俺の思う『健全』とは、既に過去の物なんだろうか? だとしたら、寂しすぎるな……。いや、でもまぁ、子供は以外としたたかだからな。そう悲観した物でもないのかも知れないが。

……って、何でこんなところで子育て論を語らにゃならんのだ。あぁ、余計なことを考えたせいで、頭がオーバーヒートしちまった……。

つづく

 

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