闇色きゃらばん 2 短距離走者の孤独

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可もなく不可もない晩飯をかきこみ、どうということのない時間を過ごしていると、もう真夜中だ。おれは、出かける支度をした。
「あら? アユム、どこ行くの?」
「ああ。臨時収入を、な」
「へえ、ワン子のお手柄?」
「当たり、だ」
「ダイジョウブダトハオモウガ、キヲツケロヨ」
「へいへい」
宿を出るおれの後を、ワン子が何も言わずについてきた。

おれ達がいなくなった神社の敷地は、夏だってのに恐ろしく寒々しい。
しかし、おれの心ははやっていた。久しぶりの金づるだ。どっちに転んでも、たっぷり巻き上げてやろう。
「よーっす、逃げずによく来たな」
呼びかけた先に浮かぶ、濃いめの人型。だが、答えは返ってこない。
「ま、おれはアンタがどんなお尋ね者かは訊いたりしねえよ。出すもん出しゃあ、すっぱり忘れてやっから」
「…………」
影は黙したままだ。
うねっていた風が、一瞬、殴り付けるようなそれになる。
「……っと……!?」
……と同時に、おれの膝が強烈にうずきだした。
これは、やばいかもしれん。低くうなるワン子をなだめつつ、おれは対策を考えた。同時に、影が言う。
「カタワの旅芸人風情にナメられるとは、俺もヤキが回ったな……」
「クッ……お褒めにあずかり、光栄だね……」
膝のうずきは、ますますもってひどくなる。脂汗までにじんできた。それでも皮肉が口をつくのは、ひねた性根の悲しさって所か。
「ちぇりゃぁッ!!」
「くっ……!!」
男が一足飛びに掛かってくるのと同時……いや、一瞬早く、おれの杖が反応する。
「ぎっ……!?」
細い木の先端が、男の顔面にめり込む。鼻の当たり――人体急所の一つ、『人中(ジンチュウ)』にドンピシャリ。自分で言うのも何だが、きれいに決まった。

だが、膝の痛みは消えない。
「なぁんだ……オッサン、『違う』のかよ……」
「なっ……何を……げぶっ……!!」
鼻血を出してもだえる男のミゾオチに、いらだちを込めた連撃を見舞う。突き刺すたびに男の口から胃液が吹き出し、あたりに酸っぱい臭いをまき散らす。
「じゃあ、一体なんだってんだよ……! 今回の『痛み』はよ……!」
なおもおれは男の腹に杖を突き刺す。吐き出すヘドに鉄の臭いが混じり、うめきがだんだん弱々しくなってくる。それでも、おれのいらだちはおさまらない。それほど、うずくんだ。
「がううっ!!」
「うるせえっ!!」
おれを止めようとしてか、ワン子がすねにかじりついてくる。だがおれは、返す杖をその頭に見舞った。
「きゃんっ!」
その泣き声で、おれは冷静になった。
そうだ。今回の『痛み』がこのチンピラでないのなら、そしてコイツに手持ちがないのなら、もう用はない。おれは脂汗をしたたらせながら公衆電話へ向かい、受話器を取って赤いボタンを押した。「怪しい男に襲われたんですが、指名手配中の犯人じゃあないですか?」と、できるだけふるえる声で。いや、足が痛くて痛くてどうしようもねえから、勝手に上等なうめきごえになるがな。電話口の向こう、新たな(だがけちくさい)金づるに、おれ達が今いる神社の名前を伝え、受話器を置いた。今晩は重労働だったぜ。
「ぐっ……」
力が、どんどん抜けていく。
たまらず、近くの樹に体を預ける。
「くぅん……」
「オマエは隠れてろっての……連れてかれっちまうぞ……」
ワン子は、おれの言葉を素直に聞いて、もっと暗い木々の隙間に隠れた。

そして、遠くからやっとこさでサイレンの音が聞こえてきた。

「…………」
ざあっ……と、闇風にそよぐ木々の葉。
見上げるおれの足は、痛みで完全にしびれていた。

……よく、夢を見たもんだ。
一杯の観客で埋まったスタジアム、トラックで号砲を待つおれ。
極限まで研ぎ澄まされていく感覚と、みなぎる力。観客の声援もいつしか全く聞こえなくなり……

ぱぁんっ!

瞬時に体が反応し、おれは走る! 百メートル、十秒と少しの瞬間!

たったったったったったったったった……!

ゴールはすぐそこ、今日もおれは一番だ! 一番はおれなんだ! 義務感にも似た歓喜とともに、おれは走りきる……現実なら、ここまでだ。だが、そっからが夢さ。

ゴールの奴はいつまで走っても、おれと交わることはねえ。アチィ夏の日にアスファルトへ浮かぶ逃げ水みてぇに、走った分だけ遠くへ行きやがるんだ。
だが夢の中のおれは、それを不思議に思ってねえんだ。「より先へ、もっと先へ」って……殊勝なこったろ? 我ながらあきれっちまうぜ。
走り出したときから一点しか見えてない視界が、どんどん狭くなっていって……いつしか、真ッ暗になってやがんだ。一面の闇の中へ、トラックの茶色が吸い込まれていく。たったったったったった……それでもおれは走る。疲れはねえ。呼吸もちっとも乱れねえ。

そのうち、走ってるトラックがおかしくなってくる。
急に、たわみだすんだ。板みたいにな。踏み出す足が『たーん!』足下が『ぐわぁ……んっ!』ってな。地面を見ると、もうすっかり板目も見えてやがる。しかも、どんどんその幅は狭くなってな。まるで綱渡りだ。
このまま走ったらどうなるか? 分かりそうなもんだろう? だが、夢の中のおれは、疑問をもってねえんだ。どんどん走る。先へ、先へ……! 足下はますます頼りなくなっていく。そのうち、ベニヤ板ほどになっていって……

べきぃっ!

あわれ、おれは真ッ逆さまよ。頭ッからびゅうっ……と落ちていって……『ああ、なんかおれ、逆さまになってるなぁ……逆さまの景色って、おもしろいなあ……』って、人ごとみてえに思ってるんだ。

落ちていく……落ちていく……で、気がついたら寝床の中さ。
お約束通り、冷や汗ぐっしょりかいて、な。
縁起でもねえ夢だよな。高校短距離界のホープが見るそれにしちゃあ。

でもおれは……何かにつけてその夢を思い出してた。逆さまの景色が忘れられなくて、よく逆立ちをするようになった。
逆立ちしてると……全く違う景色が見える。いつも見慣れた校庭の景色も、味気ないコンクリに囲まれたトレーニングルームの機械も……みぃんな意味を無くすんだ。なんか、自分自身がすげえぜい弱なもんに思えてきてな……頭に血が上ってるせいかも知れねえが、ぐわぁ……ん……ぐわぁ……ん……って、音が聞こえてくるようだった。

そんなある日のことさ。おれの世界が、本当に逆転したのは。

その日もおれは、ウォーミングアップのシメに、逆立ちをしていた。
トレーニング的な意味はねえ。ただ、好きだからやってた。あの夢を思い出しながら、な。コーチはもうあきらめ顔で、おれの気が済むのを待ってる。
冷たい床に体温が移って、なんだかもう、おれは生まれたときからこの格好だったんじゃなかろうかってな気分になったさ。

そして……

ベキィッ!!!!

何かの砕けるような……いや、夢で聞いたあのベニヤ板が割れるままの音がした。

机に立てた鉛筆は、倒しても受け身をとらねえよな? その時のおれは、まさにそれだった。「ぼひゅうっ!!」……って、悲鳴を上げるためにコンクリに散らばるホコリやらカビを胸一杯に吸い込んで、むせながら、歯ぎしりして、声にならねえうなりと、脂汗をしぼり出して……コーチの声が、すげえ遠くに聞こえて……なのにおれは、やっぱりあの夢を思い出してた。どこまでもどこまでも、闇の中を真ッ逆さまに落ちていくあの夢を……。

いろんな医者にかかった。山盛りの薬を飲み、こってりと軟こうを塗り、ぶっとい注射を打ち……。でも、おれの膝はもうダメになってた。足をぶった切るまではいかないまでも、杖なしじゃまともに歩けなくなった。

歌を忘れたカナリヤの気持ちが分かったね。その時からおれは、走れねえ陸上選手になったんだ。いや、そんな奴ぁもう選手じゃねえ。存在すら否定されたよ。
いつだったかに国語の授業で聞いた『手のひらを返す』ってのは、ああいうことを言うんだろう。クラスメイトも、先公も……そして親までも、おれを厄介者扱いするようになった。うっかりもの、役立たず、親不孝者……くそったれ共がよく言うぜ。おれが今まで誰のために走ってきたと思ってやがるんだ? てめえらの皮算用が狂ったぐらいで、おれに当たり散らすのか? はっ! おれこそせいせいしたさ。これでもう、走らなくていいようになったんだからな、こんちきしょう!

スポーツ特待で入った高校にゃあ、もうおれの居場所は無かったな。結局中退して、正真正銘のごくつぶしになったんだ。肩身が狭いったらなかったさ。家にいればネチネチと嫌味を言われる。飛び出しても行くところなんて無く、あっちこっちをびっこ引き引き歩き回って……。

――そんなとき、奴らに出会ったんだ。

蒸し暑い夏のことだった。そのころにとっぷりと日が暮れてたから……かなり遅い夜だったろうな。その日もおれは歩き疲れて、引きずる足をもっと重たくしながら、家へ帰ろうとしていた。

時間稼ぎにできるだけ遠回りをしているうち……神社の前を通った。
時期柄か、なんか祭りを開いてた。踊る声やら囃子やら、屋台の声やらメシの匂いやら……にぎやかだったな。ひねくれた身にゃぁ、憎たらしいほどに。
おれは道に一発つばを吐いて通り過ぎるつもりだった。すると……祭りの灯りの隅……夜の闇との境界線に、真ッ黒なテントがあることに気づいたんだ。

不思議な賑わいだった。祭りの陽気さとは一種別の、だが、決して辛気くさくない一角だった。気がついたら、おれは、そこへ向かって足を引きずっていた。

近づいてみて、もっと驚いた。人魂が踊ってやがるんだ。くるくる、くるくる輪ッかを描いて……周りから、なんか銀に光る物がチャリチャリ、チャリチャリ……ってな。それが、たいまつを使ったジャグリング――お手玉と、客の投げ入れるカネだって気付いたのは、しばらくたってからだった。

大道芸のたぐいを見るのは初めてだったが、見事な手さばきだった。
たいまつ、ナイフ、木箱……あらゆるものが、生き物みたいに踊るんだ。
おれはただ、口をぽかんと開けっ放した間抜け面で……どのぐらい見てたっけな? 一息ついたそのジャグラー――長身の、やけにガタイのいいスポーツマンくずれのような――が、変わらない笑顔で言ったんだ。
「君、ずいぶん熱心に見てくれてるね。興味、あるかい?」

今から思えば、なんか見透かされてるような物言いだったよな。
男の言葉に、おれは小さくうなずいた。

そしてその夜から、おれは家に帰らなくなった。

つづく

 

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