静をしっかりと抱きしめ、暖かさを確かめる。やげて、大きく視界が歪み、真っ白になっていく。……次の瞬間、二人は、下水道の中、自分たちが出てきた43番出口近くの通路に居た。
「助かりましたよ……。長年あなたを使ってますが、まさかこんな力があるなんて……」
安堵のため息を付きながら、背中に背負う剣に向かって、語りかける。
『……詳しい話は、追々してやるさ。それより、その娘の面倒を見られる場所はあるか?空気から察するに、ここは好ましくないようだ』
淡々と語る『剣』。
「……確かにそうですね。……そうだ、近くに緊急避難用のシェルターがあります。そこへ行きましょう」
ヘドロにぬめる通路を暫く進む。すると、少し色の違う壁面に出くわした。
よく見ると、同じ色に塗装されていて判りにくいが、ドアノブが付いている。
「よっ……」
静を抱える手に気をつけながら、手首だけで、ノブを回す。そのまま、肩で扉を押す。
「ちょっと行儀が悪いけど……」
ひとりごちつつ、足で扉を閉める。
……部屋の中は、『Cafe U.U.』の地下室群と似ている。ただ、あくまで緊急避難用なので、設備は最小限だ。折り畳み式のパイプベッド一つと、同じくパイプ椅子数脚。応急処置用の救急箱と、水道。それだけだ。
「ふぅ……」
ゆっくり、ゆっくり、静をベッドに横たえる。やれやれ……と、額を拭ったコートの袖口には、新しい汗がしみこんでいた。
この仕事が終わったら、クリーニングに出そう、等と考えながら、とりあえずパイプベッドの空いたスペースにコートを投げ出す。
「………………」
さて、と、改めて横たわる静を見て、優人は考えてしまった。
……哀しそうに、苦悶するような顔。穿いているジーパンは、滲んだツートンカラーになっている。このままだと、皮膚がかぶれたり、冷たさに風邪を引くかも知れない。しかし……目の前の静が赤ん坊ならば、優人もすぐにやるだろう。それこそ、昔、よく世話したのだから、お手の物だ。が、今横たわっている静は……赤ん坊のようにきかん気なところや、くるくる顔が変わったり、かわいらしいところもあるけれども……そうではない。身体的には、大人と同じ扱いをされてもおかしくない年だ。だが……と、思考がループしそうになるのを、優人は防いだ。堂々巡りをするほど、青くはないつもりだ。
「ごめん、静。もし途中で気がついたら、一応、僕の言い訳も聞いてくれ……」
眠る顔に苦笑いを向け、優人は本格的に静の介抱にかかった。
ジージャンを脱がせ、シャツの襟ボタンを2,3外す。同様に、腕時計、袖口のボタンも外す。締め付けを少しでも無くし、体を楽にするためだ。次いで、額に滲む脂汗も吹いてやる。そして……嫌でも、濃紺と群青のツートンになってしまったジーパンが見える。
「……」
“かちゃり……”
バックルを外し、ジッパーをおろす。……薄黄色に染まってしまった、下着が見える。
「……うっ……」
翁の『力』による被害の跡だ、と頭で解っていても、やはり妙な艶めかしさがある。……乱暴になりすぎないように、ゆっくり、脱がせていく。濡れた下着が、肌にまとわりついて脱がせにくい。もどかしさに、力がこもる手を抑えるのに、神経を使った。
やがて現れた下腹部は、確かに、黒い茂みに覆われていた。細かな雫が、チリチリと唸る蛍光灯に映えて、きらりと光っている。
……何を考えているんだ、昔じゃないんだから、当たり前じゃないか。
再び叱責する思考に反して、優人は、今自分の前に横たわっている少女が、まるで初めて会う少女のような気がして、妙に新鮮な、そして何となく後ろめたい感触をおぼえていた。
……止めていた息を、ふぅ、と小さく吐き、ハンカチを水で濡らし、緩めに絞る。それで、ジーパンの群青色が当たっていたあたりを拭いてやる。
「……うぅっ……」
柔らかい。そういえば、静の肌に触れるのは、赤ん坊の頃と……小学生ぐらいまで、一緒に遊んでやったときぐらいだ。その時は、何の感慨もなかった―あっても困る―が、今、こうしてハンカチ越しに伝わる感触に、優人は少し戸惑った。一瞬状況を忘れるほど、とても、心地良い。ハンカチ越しでなく、直に触ってみようとする手を、優人は懸命に抑えていた。
さらり……そっと、そっと、露に濡れた茂みを拭ってやる。足を少し開かせて、内腿から、尻へ。ゆっくり、ゆっくりと……。
「ぷぅぅー……」
何度かハンカチを絞り直し、拭い終わる。殆ど止めていた息を長く吐き出すと、額にぽつぽつと汗が吹き出した。そして
「……っ!」
恐ろしい本を、読後に慌てて閉じるように、布団を素早く掛けてやる。代わりに纏う物が何もないのは少し可愛そうだが、仕方がない。すすいで絞った下着や、生乾きのジーンズを穿かせては、意味がないからだ。そしてなにより、優人は本当に恐ろしかった。このままの状態だと、正直、自分の『どこか』が、狂いそうだった。だから、もう見るまいと思ったのだ。
「……足しに、なるかな……」
呟いて、ベッドの隅に脱ぎ捨てていたコートを、改めてその上から掛けてやった。
「(……後は、目が覚めるのを待つか……)」
スロー再生のようにゆっくりと、傍らの椅子に腰掛ける。とたんに、どっと虚脱してしまい、うなだれる。今までの、どんな『仕事』よりも、疲れた。
「はぁ……」
ため息を付いていると、
『……終わったか?』
ベッドから、金属音のような声がした。
「?!」
まさに寝込みを襲われたような反応をしてしまう。……が、何のことはない。ベッドに立てかけていた、『剣』の声だった。何に対してか、ほっと胸をなで下ろす優人。
「……えぇ。手間取りましたけどね……」
苦笑いを浮かべ、語り返す。
『ふふふ……らしくないな。だが、その気持ち、解らないでもないぞ』
頭に直接響く金属音は、微かに笑っていた。
「剣に取り憑く付喪神(つくもがみ)が、どうして解るんです?」
付喪神―長い間使われていた物への『想い』が、意志を持ったモノだ。優人は、いぶかしみながら訊ねた。が、
『なぜだろうな。ふふふ……』
意味ありげな含み笑いが響くのみで、あからさまにはぐらかされてしまった。
「ずるいですね……」
問いつめてどうなる物でもない事と思い、優人も、困った顔を一瞬向けるだけで、それきりにした。
『さて……私は少し眠るぞ。“力”を使ったせいで、疲れた。お前も、休んだらどうだ?』
ふぅ、という一際大きな響きが聞こえた。
「剣に気遣いを受けるというのも、変な話ですね……。えぇ、じゃ、そうさせていただきます」
そうして、優人は、うなだれるようにして、目を閉じた。緊張の糸が切れる音は、そのまま、まどろみの引き金となった。
・
・
……静は、夢を見ていた。
―カラカラカラ……カラン……カラン……
天井をくるくる回るおもちゃ。鈴の音。顔を巡らせれば、横には、木の柵のような物。真っ白な、布団。……あぁ、赤ちゃんの頃だ。懐かしい……
「ふぎゃぁ、ふぎゃぁ、ふぎゃぁ……」
あれ? あたし……泣いてるの? ……そっか、お尻のあたりが、気持ち悪いんだ。
……早く、誰か来ないかなぁ……
「……はいはい、今、替えてあげるよ……」
ぬっ、とのぞき込む顔。……あ、マー君だ。うふふ、顔、今とあんまり変わんないなぁ。
「よっ……と……。あーあ、こりゃ、派手にやっちゃったなぁ」
あたしのおむつのホックを外しながら、“しょうがないなぁ”って顔のマー君。それこそ、しょうがないよ。出す量なんて、調節できないもん。
「ふん、ふ、ふふ~ん♪」
マー君は鼻歌を歌いながら、慣れた手つきで、あたしのおむつを替えていく。けちを付けたのは一瞬で、素早く、うんちとオシッコを拭き、新しいおむつを敷いて、私をその上へ。天花粉をはたいて、手早く包む。
……でも、なんだか凄く恥ずかしいな。だって、全部、見られてるもんね。すごく、恥ずかしい。あーあ、早く、脱ぎたいな。おむつなんて。早く、歩きたいな。早く、マー君と一緒に、歩きたいな。
……もどかしいなぁ……。
そして、景色が変わる。
―カラーン……カラーン……
――鐘の音が響きわたる。賛美歌が聞こえる。見つめる足下は、バージンロード。あたしは、真っ白なウェディングドレス。手を引くのは、父さん。……くすっ、窮屈そうなタキシード着て、ガチガチに硬くなってる。けど、その目は僅かに潤んでる。父さんが泣いたの、そう言えば見たことないや。……あたしは、伏せていた目を前に向けた。……神父さんの隣、新郎―マー君―が立っている。じわり……あれ、なんだかあたし……泣けてきちゃった。前が見えないなぁ。けど、お父さんに従って、あたしは最後まで歩いた。
涙で滲んでるけど、目の前には、マー君がいる。嬉しい。あたしは、マー君のお嫁さんになるんだ……。
……涙を拭って、顔をよく見ようとしたとき。
「よく似合ってますよ。しーちゃん」
参列者の席から、声がした。え? この……声……
つららで背筋を撫でられるような気分がした。ゆっくり……声のした方を向く。
「その姿、よく似合ってますよ。しーちゃん」
そんな! ……マー……君?!
じゃあ、今、神父さんの隣にいるのは?
おそるおそる、顔を見る。それは……
「ふぇっ、ふぇっ、ふぇっ……さぁ、赤子の証だ。儂の孫に、なるのじゃ……」
……しわくちゃの、あいつ。鳥肌が、全身を駆け抜ける。
「ひっ……ひぃっ……」
後ずさる私の背中に、再び、マー君の声が被さる。
「大きな赤ん坊のしーちゃんには、その姿が、よく似合ってますよ」
「……えっ……?」
その言葉に、あたしは、改めて自分の姿を確認した。
「あ……あぁ……あ……」
真っ白なウェディングドレス。その下半身を覆う……おむつ……・・
「そんな……こんなの……やだ……」
呆然と呟いた瞬間、二度と思い出したくない、熱い感覚と共に、真っ白なウェディングドレスが、薄黄色に染まっていく。同時に、チャペル中に充満していく、おしっこの、臭い。
「いや……いやだよ……いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーっっ!!!」
薄黄色に染まった景色に、ヒビが入っていく。ぴし……ぴし……
泥の壁のように、世界が、崩れていく。ガラ……ガラ……
「僕は、大きな赤ん坊は、嫌いなんですよ。……じゃ、お幸せに」
そう言って、マー君は立ち上がり、くるりと背を向けて、歩き出した。背中が、どんどん遠ざかる……。
「いや! マー君!! おいてかないで! マー君!! マー君!!!」
立ち上がろうとしても、下半身に力が入らない。無理に力を込めて……
“ずるり……”
私の体から、下半身が、もげた。
“しゃぁぁぁ……”
私の下半身は、まるで別の生き物のように、おしっこを吹き出しながら、びちびちとのたうちまわる。
「くっ……」
あたしは、上半身だけで、這って、マー君を追いかけようとする。
「マー君……待って……置いて……行かないで……」
涙が、止まらない。
やがて、上半身も、涙に溶けていく。
そして、あたしは、一つの、液体に、なった……。
……ヤダヨ……マークン……アタシヲ……オイテ……イカナイデ……アタシノコト……キライニ……ナラナイデ……