「課長、ちょっとお話があるんですけども、お時間、いただけますでしょうか?」
週明けの定時後。優人は課長の席へ行った。
「うん? いいけど……今でいいの? 何だったら、これからどこか外でも良いのよ」
「いえ。結構です」
「そう……じゃ、応接間へ行きましょうか」
「はい……」
そして応接間。
きっかけを掴めず、しばらく、重たい沈黙が流れた。
「……どうしたの? 何か、悩みでもあるの?」
組織の管理者というより、恋人へ向けるような柔らかな笑みで、課長が沈黙を破った。
「はい……実は……」
俯いていた視線を上げ、意を決したように、優人は懐から封筒を出した。
表には、丁寧な毛筆で、『退職届』と書かれていた。
そのまま、意を決して続ける。
「一身上の都合で、一ヶ月後をもって、退職させていただきたく思います。それで……まことに身勝手ではありますが、退職日までの間、お休みをいただけないでしょうか?」
一息に言った。
「……ずいぶん急な話ね。それって、今日限りって事よね。引き継ぎもできないじゃない。どうして?」
優人の予想に反して、課長は驚くほど淡々としていた。しかし、その真剣な眼差しは、痛い。
「…………」
再び、俯いてしまう。理由は言えるはずがなかった。どう言って良いか解らず、沈黙で返すしかない。受理されなければ、心苦しいが、ずっと欠勤して、自動的に退職になってもいい……そう考えていた。
再び、重苦しい沈黙が流れる。ややあって
「……はぁ。ま、しょうがないか。なんてったって、“あの”黒沢翁を消しちゃったんですもんね。この街にいられなくなるのも、当然よね……」
ため息の後、課長が言った。
「え、えぇ。そうなんですよ……」
相づちを打ちかけて、とんでもないことに気づいた。
「えええぇぇっ?!!」
どうして課長が?
二の句を継げずに、口をぱくぱくさせてしまう。だが、そんな優人の姿を見て、当の課長は、悪戯っぽく―やはり、この男がやっても可愛くない―微笑んで続けた。
「んふふ……オカマの情報網を侮っちゃいけないのよ。あなたが定時後に何をやってたかは、だいたい知ってたわ。もちろん、今回のこともね。ラングの末裔さん」
「あ……あ……あの……」
そこまで知られていると、驚くより、まずい。どうすれば良いんだ……?
冷や汗を流しながら、彼が考えあぐねていると、課長は慌てて続けた。
「待って。私は別に、それを咎めたり、まして弱みを握ってどうこうしようってわけじゃないわ。むしろ、あなたに惚れ直しちゃったのよ。かっこいいなぁ……って」
「課長……」
ありがとうございます、と言いたいところだが、事が事だけに、あっさり信じるわけには行かない。それがまた、彼は顔に出る。
「信用しきってない顔ね。気持ちは分かるわ。……けど、安心して。私は、あなたの味方よ。愛する男を、裏切ったりしないわ。信じてちょうだい」
優人は見たことがなかった。この課長の、ここまで真剣な目を。眼球を突き抜け、思考を直に揺さぶる、まっすぐな瞳だ。疑念の持ちようがない。
「……ありがとう、ございます……」
俯いて、つぶやいた。目頭が、熱かった。
「そんな辛気くさい顔しないの。ほとぼりが冷めたら、また、戻ってらっしゃいな。もちろん、履歴書を忘れずにね」
「ありがとうございます……ありがとう……ございます……」
嬉しくて、嬉しくて、それだけしか出てこない。堪えても、堪えても、俯いた目尻に涙が浮かぶ。
「そんな顔、静ちゃんの前で見せちゃだめよ。あなたは、あの子を守らなきゃいけないんだから。ね?」
ふるえる肩に、ぽんと手を置き、課長はゆったりと言った。
「……はい! 本当に、お心遣い、ありがとうございました!」
涙を拭い、笑顔で一礼する。
「うん。それでこそ、マサちゃんよ。……じゃ、ひとまずはお疲れさま。次に会える日を楽しみにしてるわよ。あ、そうだ! 引き継ぎの類は、こっちで何とかするとして……事務手続きのほう、どうしよう?ほら、保険とか……」
「印鑑が必要な書類は、一旦『Cafe U.U.』に送っていただけませんか。その辺のことは、マスターに一任してありますので」
気持ちを切り替え、顔を引き締める。
「わかったわ。マサちゃんの机の私物も、宅急便で送っておいていい?」
「はい。お手数をおかけしますが、お願いします」
「OK。じゃ、以上ね」
去り際、再び真剣な声が背中に突き刺さる。
「……ねぇ、マサちゃん」
「はい?」
「最後の業務命令よ。……死ぬんじゃ、ないわよ」
また、重い空気が流れかける。しかし、優人はそれを振り払うように明るく言った。
「大丈夫ですよ。まだここでやり残してることがたくさんありますし、課長にまだ、いいゲイバーを紹介して貰ってませんしね」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。いいわ、お店に来たときには、目一杯サービスしちゃうから!」
「楽しみにしてますよ。……じゃ、失礼します」最後にもう一度深く一礼して、優人はそのまま、会社を後にした。
「やっぱり、話が大きくなっちまったな」
パイプの煙を、ため息と共に、ふぅと吐き出し、ユニシスが言った。
優人が、黒澤邸から戻って約2日。『黒澤翁怪死』のニュースは、瞬く間に広まり、マスコミに絶好の新たなネタを提供した。そしてまたぞろ、様々な報道合戦が繰り広げられていた。それだけならばいいのだが、何しろ相手は黒澤翁だ。政界の、横の繋がりがある。当然、裏の世界に通じる物も多いだろう。仇討ちをしないとも限らない。事実、ユニシスの情報によると、すでに不穏な動きが幾つか出ているらしい。
「しかし、何も街を出ていくことはねえんじゃねぇか?」
少し弱った顔で、ユニシスが言う。
「いずれ、足がつくでしょうからね。その前に、せめてここからでも、姿を消した方が良いと思ったんです」
珍しく煙草―ジョーカーという120ミリスリムの銘柄だ―をふかしながら、優人は言った。
「確かに、不穏な動きはあるが、来たら来たで、その都度追い払えば……」
「マスターや、他のみんなに迷惑がかかるのも、何ですしね」
なおも続けるユニシスを、優人が遮る。
「元々、この仕事を振ったのは俺だ。だから俺にも責任がある……ってのはダメか?」
「手を下したのは、僕です。それにマスター、お言葉ですが、『現場』を離れて長いでしょう?」
少し意地悪く言う。
「やれやれ……。ああ言えば、こう言う……か。お前の、その妙に頑固な所、変わらんな。わかった! 俺はもう何も言わねぇ。好きにするがいいさ。……ただし、頃合いが来たら、戻って来いよ。お前さん向きの『仕事』は、沢山あるんだからな」
「もちろん。貴重な収入源ですからね。みすみす手放したりはしませんよ」
「お互い、そういうこったな。それからな、道中もし、宿や路銀に困ったら、連絡をくれや。俺のネットワークを駆使して、そこでの手軽な『仕事』を回してやる。泊まりも、そこでできるだろうよ」
ユニシスの知り合いは、全国に散らばっている。ユニシスの成功を機に、今では、この『Cafe U.U.』のような場所が、各地方にある。正式な組合などと言う物ではもちろんないが、各店それぞれ、相互に『仕事』の情報を交換しあっているのだ。『元締め』のユニシスが頼めば、即座にどんな『仕事』でも回ってくる。
「お心遣い、痛み入ります」
真正面を向き、ぺこりと頭を下げる。
「水臭ぇ事言うな。このぐらいの協力は当然だぜ」
困ったような顔で大仰に返すユニシス。
「……静のこと、くれぐれも頼むぞ」
一転、真剣な親の顔になり、真っ直ぐに優人を見据える。
「……はい」
優人はそれを全て受け止め、にこりと笑って、頷いた。
戻ってきた夜。静は父親に全てを包み隠さず話した。事の顛末、自分の狂態、そして……優人への想い、優人自身の想い。隠し事のあったまま『ついていく』と言ったところで、納得してくれるとは限らない。だから、まずは全て話そうと思った。彼女なりの、少し不器用だが真剣な決断だった。
「やれやれ……」
全てを聞き終わった後の彼の第一声は、ため息混じりのそれだった。
「本人の口から改めて聞くと、やっぱりちょっとショックだなぁ。ははは……」
ユニシスとて、全くの無神経ではない。血は繋がっていなくとも、17年間育てた娘のことだ。想いを寄せる相手が、すぐ側にあることは、気づいていた。そしてまた、娘が思い込んだら一途であることも、よく分かっている。今更どうこう言ったところで、テコでも動かないのは、予想が付く。だから
「きっと、マー君のことだから、街を出るって言うと思うの。そしたら、あたしも着いていきたいの。……お願い」
と言われれば、頷くしかない。
「あ……ありがとう! 父さん!!」
そういって抱きついてきた娘の体を支えながら、彼は、娘を嫁に出す親の心境というのが、少し解ったような気がしていた。
そして、その夜。
旅支度……とはいえ、剣が二振りに、それを隠すための釣り竿用バッグ、最小限の服と、路銀だけだが……を終え、優人は、地下の自室に居た。
チリチリと唸る蛍光灯を見つめながら、複雑な想いのため息が一つ吐かれる。
……もとより波瀾万丈、一寸先は闇のこの世界。続けながら安定しようってのが、間違ってる……父の言葉がよみがえる。
「そうですよね……だから、楽しいんですよね……」
後悔など、もとよりない。いや、全くないと言えば、嘘になるか。世話になった会社の人間に、若干、ある。しかし、優人はそれを
「ふふっ、楽しい……か。そうだ、そうですよね。ははは……」
『仕事』の醍醐味が得られる楽しみの笑いで、包み込んだ。
仕事の醍醐味。世間一般の、スリルを味わいたい、多額の報酬を得たいというのも、ないではない。が、それよりも、依頼主の感謝の言葉、笑顔を見ることが、何よりも自分は嬉しい。名も知らぬ人の、自分に対するささやかな感謝。それがたくさん見たくて、自分はこの『仕事』を続けている。
胸の傷に誓って、痛い想いをする人が、少しでもいなくなるように。たとえその痛みが治ることはなくとも、少しでも痛みを和らげてあげられるように。
「そうですよ。もっと、いろいろな人に出会える……楽しみですよ」
もう一度、天井に向かってふっと微笑み、優人はそのまま眠りに落ちた。
……そして、朝。まだ街が目覚めるかなり前に、優人達は店を出た。
「じゃ、行きます。後のこと、よろしく頼みます」
ユニシスへ向けて、ぺこりと一礼する。
「おう、まかしとけ。……で、目途としちゃ、いつまでだ?」
「さしあたり……『現世裂き』が元に戻るまで……ですね。それからは、その時の状況を見て考えます」
「わかった。……じゃ、達者でな」
そう締めくくろうとする彼に、優人は返した。
「今生の別れじゃないんですから、それはやめましょう。またな、ぐらいで良いでしょう?」
暗い顔をしかけていたところに、思い切りの笑顔を向ける。
「ふっ……そうだな。じゃ、帰ってきたら、お前に一杯おごって貰うとするか!」
「いいですよ。何を飲むか、帰ってくるまでに決めて置いてください」
「よし!……じゃ、またな!」
「ええ。行って来ます!」
そして優人たちは、通い慣れた店を後にした。
手がかりになる言葉は、『北』と『洞窟』だけ。
あれから『剣』が、『現世裂き』に微かに遺っていた残留思念をかぎ取り、言葉を拾ったのだった。どうやら、どこかに封印されているらしい。ただ、それを拾うのに随分苦労したのか、『常世渡り』は以来ずっと眠りっぱなしだ。
しかし、大ざっぱでも目的が決まっていた方が良い。
「まずは、有名どころから巡ってみて、その周辺で聞き込み……というのが王道ですね」
そんなことを思いながら、優人がのんびり呟く。失った物もあるが、少し肩が軽いのも事実だ。
「そうだね。何処へ行くかは、電車に乗ってから考えよ!」
「ええ。……この道中、貴女の事も、きっと解るような気がしますよ。綾女さん」
優人はふと、斜め後方を見て呟いた。すると
「……ふふっ……私がアンタの首を取るのと、どっちが先かな……?」
ゆらりと空気が揺らめき、そんな声が聞こえてきた。
「貴女を元に戻す方へ、文字通り、首を賭けますよ」
にやりと微笑む優人。それを見て、静が割って入る。
「フンだ! アンタなんかに、マー君はあげないんだから! もし、賭けに負けても、首はあたしが貰ってやるんだ!」
ぷぅ、とむくれる顔は可愛いが、台詞の中身は、恐ろしい。
「失敗を前提にした話はしないように……」
これには、優人も引きつった苦笑いで返すしかない。
「まったく……ははは……」
「あははは!」
「ふふふ……」
それぞれの笑い声が、爽やかな朝、澄んだ光の空へ吸い込まれていった。