ぶくぶく…… ぶくぶく……
「ぶはっ!! げほっ!! げほっ!!」
危ないところで気がついて、僕は思いきりむせた。咳の音が大きくこだましてやかましいけど、こっちはそれどころじゃない。
「はぁ、はぁ、はぁ……あー……やれやれ。危なかった」
ひとりごちながら、湯船の縁に座る。
「……ん?」
そこで初めて、僕は周りの変化に気づいた。
誰もいない。あれだけたくさんの人がいたのに、今は自分一人だ。
ドア越しに聞こえる、脱衣場の喧噪も、ぱったりと止んでいる。
聞こえるのは、お湯がわき出る、ザバザバと言う音だけだ。
「っかしいなぁ……?」
何回も何回も、きょろきょろしてみたけど、やっぱり誰もいない。
浴場内を一周してみたけど、やっぱり誰もいない。サウナしかり、打たせ湯コーナーしかりだ。
なんか寂しいけど……温泉を独り占めってのもいいかも知れない。僕は、楽観的に考えることにして、幸いとばかりに行儀悪く湯舟に飛び込んだ。
「あ~~~~……」
身体のよどみを乗せたダミ声でうなるうち、なんか一曲、歌いたくなってきた。
ご存じの通り、風呂場は良く声が通る。これほど広いところなら、なおさらだ。でかい風呂場で思い切り歌う……普通は絶対できないようなことだけど、誰もいないから、やってしまおう。
曲はもちろん……
「♪ぅあなたは~もおぉ~ぅ忘れたかしらぁぁ~ 赤い 手ぬぐい マフラーにしてぇぇ~……」
僕は、『神田川』を、思いっきりくさく、ご機嫌で歌い出した。
「♪ふたりで 行った 横町の風呂屋ぁ~~」
お、いい調子で後に続いてくれるなぁ。綺麗な女声だ。いいぞ。
「♪一緒に 出ようねって言ったのにぃ……ぃぃいいっ!?」
ちょっと待て。なんで、ここで、『女声』が聞こえるんだ?
ずざざっ
思わず、湯船の中で後ずさりしてしまう。
スローモーションになりながら、もう一度、浴場全体を見渡す。
「♪いつもぉ~わたしがぁ~まぁたぁされたぁ~……って、あれ? もう歌わないの?」
いた。僕が浸かってる、ちょうど向かいの湯船。『金泉』の方だ。
柱がじゃまして、よく見えなかったんだ。そこからのぞき込むように、向こうもこっちを見てる。よく見えないけど、明らかに女の子だ。
目を凝らしてみてみる。歳の頃は……たぶん僕と同じぐらいだな。ここからだと顔までは解らないけど、たぶん長いだろう髪の毛を、タオルで綺麗にまとめ上げている。お湯のせい――『金泉』のお湯は、赤茶けている――で、首から下がどうなのかは、よく解らない。……っと、テレビの温泉番組の見過ぎかな。変な妄想をしてしまう。
「続き、歌わないの? いい声してるのに」
目が合ってるのに、変わらない調子で、その娘は言った。全くペースを崩さないその様子に、僕の方が恥ずかしくて顔を背けてしまった。
「あー! いまさらそっぽ向かなくてもいーじゃない!」
向かせてくれ。前屈みになりそうで、こっちはヒヤヒヤしてるんだ。
僕は努めて、平静を保とうとした。
「ねえ」
それにしても、よく通る声だ。まるで、すぐ側で話されてるような……。
ちょいちょい
肩をつつく感触。
ちろり……と視線を移したすぐ側に
「ね?」
その娘が居た。