街路樹の囁きが聞こえる、穏やかな春の日。私は、足取りも軽く、あの屋敷へ向かっていた。新聞のアルバイト情報欄で、『メイド募集』の記事を見たからだ。『誰かのために尽くせる』それが、私には何より嬉しかった。
私は、兄さんの喜ぶ顔を思い浮かべながら、道を急いだ。
兄さん、弘幸兄さん。私は、兄さんを見て育った。私の両親の記憶というのは、床にふせっている姿しかない。病気の両親のために、自分の時間なんて気にしないで、一生懸命に介護をする兄さん。その姿はとてもまぶしく、輝いて見えた。子供心に、
『人はこんなに、輝ける物なんだ』
と思っていたのを憶えている。
でも、介護の甲斐なく、両親は間もなく、亡くなった。
けれど、私は忘れない。苦しそうな顔ばかりしていた両親の、いまわの際に流れた、涙の雫の輝きを。同じように、兄さんの瞳からこぼれた、熱い、涙の雫を。3人とも、輝いていた。兄さんの輝きが、両親に与えられたんだと思った。私には本当に、暖かな光が、その場に満ちているのが見えた。……美しかった。
『私も、人に光を与えたい。いや、消えかけた光を、私を通して強くして、その人に戻してやりたい。それができるようになりたい』
強く、そう思うようになった。
以来、自分なりに、介護について勉強した。それからしばらくたち、見つけたのが今回の記事だというわけだ。
「ふぅ、急ぎすぎたかな……ちょっと、休憩っと……」
気がつけば、走っていたらしい。よほど気が急いていたようだ。立ち止まり、街路樹の一本に手をつき、息を整える。そこで、おかしな事に気づいた。
「あれ? あなた……何をそんなに震えてるの?」
そう。その木は震えていた。まるで、何かに怯えているようだった。
手から伝わる『感覚』が、そう言っている。
「え? ……危ない……気を……つけろ? 気を付けるって、何に?」
問い返したところで、やはり
『危ない……危ない……気を……付けろ……』
震える『感覚』があるだけだ。
「私のことを言ってくれてるんだよね? ねぇ、何なの?」
再び問うても
「…………」
その木は、もう何も答えてくれなかった。
「変なの……。ま、気持ちのどっかに置いとくわ。じゃね!」
そして私は、再び、あの屋敷―黒澤邸―へと向かった。
・
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私は、さっきの木々達の言葉を反芻していた。そう、確かに、ここは違っていた。空気が重い。というより、なんだかひどく粘ついている。外はあんなに爽やかだったのに、ここは、まるで嵐のまっただ中のようだ。
担当の人と面接をして、私は私の思うところをはっきり言った。顔色をうかがうわけではないが、反応も良いようだった。だが、やはり、部屋の中も、空気ははっきりと澱んでいた。
……そして、その違和感は、彼―黒澤翁と直接会ったとき、はっきりした。
「新しくメイドに加わってくれるというのは、君かね?」
「は……はい……」
声が震えていた。それは、彼が大物だから、と言うような理由じゃなかった。『光』がおかしかったのだ。皺だらけの顔の奥、細い目。ニコニコと穏やかに微笑むその目は……明らかにおかしかった。まるで、目を開ければ、その奥には奈落の穴が続いているような……そんな、『黒い光』を放っていたのだ。
質問に関しての受け答えはしていたが、私の恐ろしさは、徐々にその度合いを増していた。なぜなら、彼が体を動かす度に、空気が動いた。その空気は、他のどこよりも、ねっとりしていた。彼が、この空気の発生源なのではないか、とも思った。
……しばらくして、会話の話題がふと途切れ、私は、視線の遣り場に困って、何気なく彼の背後にそれをやった。
そこには……見てはいけないモノの姿があった。
彼の影。異様に長く伸びたそれは……明らかに、人の形を逸脱していた。
「あっ……あの……くっ……黒澤……様……そっ……それは一体……?!」
つい、口に出して言ってしまった。彼も、私に視線の先に気づく。
その瞬間、空気が、凍り付いた。“ぎっ……ぐぎぎっ……ぎりぎりぎり……”そんな軋みが聞こえてくるほどにゆっくりと、彼が微笑んだ。
「そうか……さっきから様子がおかしいと思ったら……『彼』が見えるのか……。ふふふ……これは面白い……と言うことは……これはどうだ……?」
“しゃっ!!”
突然、何かの気配がした。
「ひゃっ!!」
体をよじって、避ける。
「ほうほう……」
『彼』が、それを感心したように見た後、
“しゃっ!!”
もう一度、同じ気配。
「わぁっ!!」
再び、避ける私。……気配が通り過ぎた後、恐る恐る後ろを見て、私は愕然とした。私が避けたモノ……それは、ボールペンだった。だが、人の力で、こんな投げ方ができるのだろうか?
……ボールペンは、2本とも、壁に深く突き刺さっていた。
「ふぅむ……面白いな。『彼』が見えて、その俊敏さがあって……。お嬢ちゃんには、違う面で、儂の役に立って貰うとするか……」
そう言って、『彼』は、ぬるりといびつに微笑んだ。
「わっ……私……帰ります! このお話……無かったことに……」
私は立ち上がろうとした。『尽くしたい』という気持ちより、明らかな『身の危険』の方が圧倒的に上回ったからだ。しかしその時
《喝!!》
心臓を鷲掴みにされるような声が響いた。大声……というより、体に直接沁みて……くるような……
そのまま、私は、意識を、失った。
ぞんっ……ぞんぞんっ……
ぎゃあぁぁ……ひいぃぃ……
遠くで声がする。何の音? ……悲鳴……? 人の……?
「うおわぁぁぁぁーーーっっ!!」
見ると、眼前に、雄叫びを上げて、剣を振りかざす男がいた。
危ない!!
次の瞬間、『私』の手に握られた剣が閃き、眼前の男は、上下二つになって転げ落ちた。
「畜生! ここからなら届くまい! 死ねぇぇっ!!」
“ぱんっ!!”
今度は乾いた銃声が聞こえた。
どっちだ?
『私』は、即座に銃撃された方を向き、剣を大きく振りかざす。
“ぐおんっ!!”
すると、鎌のような刃が剣から生まれ、弾丸をうち消しながら、撃った男に向かっていく。
「な……?!」
聞こえたのは一瞬で、次の瞬間には、彼は縦割りの肉塊になっていた。
「隙有り! もらったぁっ!!」
すかさず、背後から別の男が襲いかかる。
『私』は
《彷徨う雫よ、光を遊び、我が衣水面と為せ……》
何かを唱えた。すると
「きっ……消えた?!」
襲いかかろうとした相手には、『私』が見えないらしい。
『私』はゆったりと男の背後に回り
“ずぶり……”
「か……は……」
剣で、男の胴を貫いた。
足下に転がる、『人だったモノ』。
ぬるりとした赤に染まった、手。
剣に映る、顔。
……自分の、顔。
……そんな! そんな馬鹿な!! 私は何をやってるの?!
必死に思い出そうとする。……確か、黒澤翁と面接して、変な『影』に気づいて……それから……それから……
混乱しきっている意識とは裏腹に、『私』は、更なる獲物を求めて、その地獄絵図の中を彷徨っていた。……自分の体なのに、言うことを聞かない!
『……綾女。そいつも侵入者だ。……殺れ』
声が聞こえた。『私』は
「……はい……」
と言ったらしい。
でも……その……相手は……
「綾女!! ……どうしちまったんだ! おい!! 俺だ! 弘幸だ!!」
兄……さん……
『私』は、全く聞こえないそぶりで、兄さんに歩み寄る。
「俺が解らないのか! おい!! 綾女!!! 兄ちゃんが解らないのか!!」
ちゃきっ……
『私』は、剣を構え……
「綾女ーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
“ずごぼっ……”
兄さんの、首を、はねた……
『私』は、のろのろと、兄さんの首を手に取った。
相対して、見つめ合う。
瞬間、私の意識と、『私』の視界が合致する。
私の兄さん。
憧れだった兄さん。
優しかった兄さん。
たった一人の兄さん。
兄さんの……首……
「あ……あ……あぁ……」
ガクガクと、体が震える。首を抱きしめたまま、私は崩れ落ちた。
これは……夢だよ。こんなこと、あるはずないよ。
誰か夢って、言ってよ。
ねぇ……どうして、夢なのに、この血は暖かいの?
ねぇ……どうして、夢なのに、肌が冷たくなっていくのが解るの?
ねぇ……どうして……夢……なの……に……夢……な……の……にぃ……
うっ……うううっ……
「うわああああああああああああああああーーーーーーーーーっっっ!!」
“カシャー……ン……”
カワイタオトトトモニワタシノココロハコナゴナニクダケチッタ
……イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。イマノコレワタシジャナイ。……ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカタスケテワタシハココニイマス。ダレカ……
・
・
ぽつり……ぽつり……
涙が溢れ、彼女の顔にこぼれる。
優人は泣いていた。悲しすぎた。相手のことを思いやるどころではない。知ってしまったのだ。直接。深すぎる悲しみ。とてもじゃないが、受け止めきれない。だから、その分は、泣くしかない。
「ううっ……うぐっ……ひっく……うおぉ……」
肩を震わせ、嗚咽を漏らす。そんな彼に、
「マー君……ううん、優人……もう、泣いちゃダメだよ。この人を、助けるんでしょう?」
柔らかく、穏やかな声がした。
「……え?」
驚いて、顔を上げる。ふわり……と、柔らかな感触が、濡れた頬を包む。
「……ね? もう泣いちゃ、だめだよ……」
頬を掌で包み、瞳を真っ直ぐ見つめて、微笑む静の顔があった。
その顔は、まるで慈母のように暖かく、寛い笑顔だった。
「う……うん……」
子供のように、うなずく優人。気持ちが、驚くほど落ち着いていく。
「あっ……ありがとう……」
何に対してか、感謝の言葉が漏れてしまう。
「いーのいーの! ……でもこれで、解ったね」
もう、いつもの軽い声だ。さっきの……と、考えかけたが、今はそれどころじゃない。涙を拭い、心を締め直して、静の後を継ぐ。
「ええ……彼女……心の底で泣いてましたね……助けて! って……」
「……お兄さんの顔、なんだかマー君に似てたよ。それで……来たんじゃないかな」
「かもしれませんね……」『……幸い、心は砕けとらんな……』
『剣』が言った。
「えっ?!」
『砕けたのは、彼女のイメージの中でだけだ。実際は、ずっと奥に封印されている』
「じゃあ、今、彼女の中にいるのは?」
『彼女であることに変わりはないが、“負”の部分を意図的に増幅された、偽の人格といえるだろうな。つまり、極端に言えば、表に出ている人格と、封印している側が入れ替わった……と言うことだな』
「負の部分……? じゃあ、彼女は二重人格なんですか?」
『違うな。負の部分とは、人が誰しも持っている物だ。……自分にも、心当たりがあるだろう?』
見透かしたように言う『剣』
「うっ……」
胸の傷が疼くのを感じながら、納得する。
「つまり元に戻すには……」
『負の人格を削って小さくし、正の人格の封印を解く。そして、負の部分を二度と入れ替わらないようにする』
「無くすわけじゃないんですね」
『必要な場合もあるからな。そういうことは、そもそもできん』
「……で、その方法は?!」
気が急いて、詰問口調になってしまう優人。
『慌てるな。方法は一つ。“負”を増大させた大元を絶てばいい』
優人の頭に、黒澤翁の顔が浮かぶ。が、彼はもういない。ということは……
『そうだ。彼は“異界の者と契約をした”と言ってたな。その“異界の者”を倒せばいい』
「でも、どうやって居場所が……」
人間ならまだしも、相手が異界の者となると、見当が付かない。
『異界の者との契約は一対一だ。つまり、“現世裂き”の魂を抜いたのも“そいつ”なら、この綾女の心を封印したのも“そいつ”だ。“現世裂き”の捜索をしているうちに、何か手がかりがあるはずさ』
「なるほど……」
さすがに古い剣だけあって、物知りだ。と、優人が感心していると……
「う……う……ん……」
ベッドの上の綾女が、目を覚ました。
「!!」
皆一瞬身構えたが、彼女は襲いかかる風もなく、とろりとした目で優人をみつめ、その顔を両手で包んだ。
しばらくの間。
そして、うっとりとした顔で、呟いた。
「アンタ……なんだか、懐かしい顔だね……。私……アンタの首が欲しい……」
優人は、そんな綾女の瞳を真っ直ぐ見つめ、
「やれるもんなら、やってみなさい。……その前に、貴女を元に戻して上げますよ」
「ふふふ……何のことだろうな……」
「ははは……さぁ、何でしょうね……」
お互い、自信に満ちた顔で、にやりと笑いあった。