(がくん!)
「おわっ!?」
僕は、階段を踏み外したような感覚で我に返った。びくり、と体が震え、音を立ててテーブルの上の物が揺れる。危ない、危ない…。慌てて体制を整え、辺りを見渡した。…そこは、さっきまでと同じ喫茶店。どうやら、くつろぎすぎてうたた寝していたようだった。徐々に、風景が戻ってくる。
「………?」
しかし…なんか妙な夢を見た気がするんだけど…なんだっけ? とんでもなくデタラメな夢だった気がするんだけど…まぁいいや。うーん…なんだか頭が重いなぁ…そう思った僕は、ちょっと奮発して、もう一杯コーヒーを飲もうと、ウェイターを呼んだ。
「すいませーん!」
「…………………」
覇気のない若い男のウェイターが、のそのそとこちらへやって来て…
「はぁ?!」
僕は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。その格好に…だ。
僕の知っている、カッターシャツに黒のスラックス、首元には黒の蝶ネクタイ…じゃない。全く違う、明らかに浮いた格好だ。
「はい、お客様」
目を丸くしている僕など全く意に介さない風に、淡々と型どおりの答えを返す、彼の姿は…彼の、姿は…ベージュの、トレンチコートだった。「お客様?」
口をあんぐりさせている僕…というより、呼びつけておいて何も言わない僕に、促す声が掛かる。僕は一瞬我に返り、
「あ…あの…ホットもう一つ、お願い…します…」
何とか、彼を呼び止めた本来の目的を果たした。
「ホットもう一つ、ですね。かしこまりました」
復唱の後、軽く礼をして、厨房の方へ向かうかと思った瞬間、突然…
『ぶわっ!』
ウェイターが、そのコートの前を思い切り広げた。
「だぁぁっ?!」
僕は息を思い切り呑んだ。
だって…だって彼のコートの下は、全裸、だったんだから…
「もう少々お待ち下さい…」
引きつりまくっている僕の顔など、やはり全く意に介さず、ウェイターは何事もなかったかのようにコートの前を閉じ、全くの無表情で厨房の方へ向かっていった…。
「な…何だったんだ?!」
僕は全く訳が分からず、しばらくの間目を白黒させていたが、だんだんと、思い出してきた。さっきの夢について、だ。
確か、僕の隣にトレンチコートを着た女の人が居て、僕と目があって…
じゃあ、これは夢の続きなのか?! 僕はそれを確かめるために、古典的方法として、頬をつねってみた。痛い。なら、聴覚は? 耳を澄ます。…店内、外ともに、地下街の喧噪がはっきり解る。嗅覚…タバコに火を着ける。うん、うまい。最後は視覚だな…じっくりと店内を見渡し…見渡して…僕は愕然とした。
「な…な…な…わねくれのあおぇぱ??!!」
別にウケを取ろうとしているわけじゃない。ほんとにそう言う意味を成さない音が、言語機能が麻痺してしまったかのように、口を衝いて出たのだ。呆気にとられて絶句するどころの騒ぎじゃない。
僕が改めて認識した視界に移った風景は…
全員、トレンチコート姿の、周りの客だった。
僕は、機械仕掛けの人形のように、きりきり…きりきり…と、何度も店内を見渡し、今の状況に追い打ちをかける光景を見た。
「いらっしゃいませー!」
「やぁどうもこんにちわ…」
店員の挨拶、答える客。その全ての言葉に彼らは…
(ぶわっ!)(ぶわっ!)
おのおの、コートの前を広げて、自分の裸身をご開帳するのだ。そう、それが当然の挨拶であるかのように。
「……………」
やがて、二杯目のコーヒーが運ばれてきた。ウェイターは、コーヒーをテーブルに置くと、もう一度、ぶわっ! とコートの前をはだけ、結構立派な自分のナニを見せてから、やはり前と変わらず、覇気のない声で「失礼します」と言って去っていった。
…僕の頭は、完全に真っ白になっていた。のろのろとコーヒーに砂糖とミルクを入れ、グルグルとかき混ぜて、すする。確かに、ぐっとおいしくなったあのコーヒーの味だった。しかし………「しかし」の後が出てこなかった。
「あら? あそこのお兄さん…」
「ほんとだ! 珍しいな…」
「やだ! うっそぉー?!」
不意に、店内がざわめきだした。声と視線が、一カ所に集中していくのが解る。その、行き着く先は…僕?!
はっとしてあたりを見渡すと、なんと、全ての客が、僕を凝視していた。
手帳に何かを一生懸命書いていたサラリーマンも、分厚い新書を黙々と読んでいた女性も、仲の良さそうに、向き合ってトマトジュースを飲んでいた熟年夫婦も、遠い目をして物思いに耽っていた老婦人も、大声で盛り上がっていた派手な服の若者達も、その彼らを苦々しく見つめながら、コーヒーの味に更にしかめっ面を深めていた初老の男性も…
みんな、それぞれ色とりどりのトレンチコートを着て、僕を見つめていた。
状況の把握、その他諸々をさっ引いて、これは純粋に怖い。想像したくはないけど、このままここにいた場合展開されるであろう阿鼻叫喚の図が、僕には正確に予測されたからだ。では、どうするか?
(だっ!!)
僕は、素早く傍らのジャンバーとカバンをつかんで、店を飛び出した。会計云々なんて言う、『常識』的なことは、どうでも良かった。この『非常識』な空間から逃げ出せれば…!
「(はぁ、はぁ、はぁ………)」
僕は走った。頭がパニックになっていたから、地下を縦横に走っている地下街を、目をつぶって、息を切らせてでたらめに走った。
何故目をつぶっていたかって? 見たくなかったからだ。周りの風景を。
だって、周りの人間全てが、トレンチコート姿だったんだもの…