柔らかな殺意 0

0.原風景

 あたしがこの世で最初に見た物は、青い空。
まるで、地面から空へ落ちて行くんじゃないかと思うような、そんな空。
暑かったか、寒かったか。解らない。そんな感覚を憶える前だったから。
そして、次の記憶。私をのぞき込む、4つの目。一人は、父さん。
でも、父さんの不安そうな瞳よりも、あたしは、もう一人の方をずっと見ていた。言葉も解らない、まして『憶える』なんて事とは無縁の頃だったのに、あたしは、その目を『知っている』ような気がした。

そして次。目の前に、『彼』の背中。あたしは、よちよち歩き。おむつも取れずに、やっと立つ事ができるぐらいなのに、あたしは、『彼』の後を必死に追いかけていた。父さんが言うには、
「まるで、『彼』について行けなければ死ぬ、と言わんばかりだった」と。
ずんずん進む『彼』の背中。ついていくあたし。あたしは、この風景も、『知っている』気がした。
『彼に付いていきたい』ずっと、そう思った。だから、おむつなんかして、もたもた歩く自分が悔しかった。また父さんが言うには、一度、おむつを着けるのを頑として嫌がったことがあったそうだ。結局、その日はおむつなしで過ごしたけれど、やっぱりおもらししちゃって、わんわん泣いたそうだ。
『なんだか、悔し泣きに見えた』
父さんが言う。
そう。あたしは悔しかった。なかなか成長しない自分に。あたしは苛立っていた。いつまでも取れないおむつに。
『早く、大きくなりたい。こんな物を着けている時じゃない。ちゃんと歩いて、『彼』に追いつきたい!』
あたしは、だぁだぁと言う赤ん坊言葉の裏で、確かに、そう、『思って』いた。

『優しいね』
……よく、他人から言われます。そんなとき、僕は決まって誤魔化すことにしています。自信が、無いからです。僕としては、特に『そうあろう』と気張っているつもりはありません。ただ、ちょっとした心配りは、自分がされると心地良い。だから、他人にもそうしてあげよう。大きな感謝より、小さな事の積み重ねが、僕は好きなんです。それだけの、単純なことです。
……ああ、なぜ、誤魔化すのか? でしたね。先ほども言いましたが、自信がないのです。
よく、夢を見ます。場所は色々なんですが、行動は同じ。剣を持って、大暴れする夢です。
夢の中では、まるでゲームの主人公のように甲冑に身を包み、大きな剣を振りかざし、人をバタバタとなぎ倒すのです。
恐ろしいのは、その時の自分の顔です。笑っているのです。楽しそうに。
大体は、夢の中の笑いが頂点に達した頃、驚いて目覚めます。
あまりに生々しいので、『ひょっとしたら、本当にやってしまったんじゃないか?』と思って、部屋中を見渡してみたり、自分の手を確かめたりします。
……正直、あまり良い目覚め方ではありません。大抵、いやな夢という物は、時間とともに忘れていく物です。ですが、その夢は、様々なパターンで現れるのです。まるで、テレビの連続ドラマのように。
……そして何より、僕が自分の『優しさ』に自信が持てない理由がここにあります。楽しいのです。夢を思い出していると。
笑い声を上げながら、相手を斬る『僕』。面白いように細切れになり、絶命していく相手……。いつしか、現実の『僕』も薄ら笑いを浮かべています。

……そんなとき、胸の傷が、ずきりと痛みます。僕の胸にある、大きな刀傷。随分薄くなってきましたが、それでもよく分かります。
その傷は、父さんにつけられました。
昔の僕は、その『夢』を見た後、しばらくはとても興奮しました。自分の中の、乱暴な部分が、一気に吹き出したようで、荒れました。
そんなある日、僕は父さんに稽古場へ呼ばれました。
その日も僕は、まるで自分が世界で一番強いような風に、学校で暴力を振るったのです。
「なぜ、そんなことをする?」
怒りではなく、ただ一言、真剣に訊きました。
「楽しいからだよ」
興奮状態にあった僕は、薄笑いを浮かべて、そう言いました。
「…………」
すると、父さんは悲しそうな顔をして、指をぱちりと鳴らしました。
入り口から、赤銅色の肌をした、とても体格の良い、髭面の男が入ってきました。その男は、のしのしと僕に歩み寄ると、いきなり、僕を羽交い締めにしたのです。
「な……何すんだ!!」
足掻いても、絡まる腕はびくともしませんでした。仕方なく、眼前の父さんを睨みつけました。ですが、そこには……
それは確かに父さんでした。が、その顔は般若のように恐ろしく、その手に刀を抜いていたのです。
鬼気迫る……そう、まさにそんな形容がぴったりでした。
刀を中段に構え、じりじりと僕の方へにじり寄ります。
「ひ……ひぃっ……!!」
さっきまでの強気はどこへやら、僕は羽交い締めになったまま、ガタガタ震えていました。もし今この腕から解放されたなら、這ってでも逃げるだろう……そう思いました。ですが、そんな想いは、父さんの一喝によって、うち砕かれました。
「きえぇぇぇぇっ!!」

“ぴゅうっ!!”

白刃の煌めきが、一瞬。
「……?」
何が起こったか解りませんでした。固く目を閉じたそばを、空を切り裂く感触だけがありました。
ですがやがて、僕は、胸が熱いことに気づきました。
恐る恐る目を開けると……
「う……うわぁぁぁぁぁっ!!」
僕の胸に斜めに引かれた、紅い線。それは徐々にその太さを増していき、やがて、僕の上半身を真っ赤に染めていきました。

“どくん……どくん……どくん……”

血の溢れる、熱い感覚がします。そして、遅れて襲いかかってくる、痛み。
「うわぁっ!! ああぁぁっ!! うわぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーっ!!」
見慣れない物、自分の血。大量の紅。解らないほど痛い、傷。
恐ろしくて、痛くて、大暴れして、泣き叫びました。それでも、後ろの大男は、離してくれません。
「ああうっ! あうっ!! あがぁぁぁーーーっ!!」
まだ斬られるのか?! 恐ろしい……恐ろしい!! やめてくれ!!!
僕は、気が狂れたように、父さんに向かって叫びました。
ですが、父さんは何も言わず、ただ、変わらず険しい顔で、僕を見つめるだけでした。
「い……いひっ……」
僕はその顔に、全身の力が抜けていきました。そして……恥ずかしい話ですが、いい年をして、おしっこを漏らしてしまったのです。
「う……ううっ……うぐっ……うわぁぁぁぁーーーーん……」
上半身とは違う生暖かさが、下半身を覆って行きました。
僕は、情けなくて、怖くて、どうして良いか解らなくて……大声を上げて泣きました。

“どさり……”

不意に、腕の戒めが解かれました。僕は、逃げることも忘れ、自分の血とおしっこの中、うずくまって泣いていました。すると、すぐ側から、父さんの声がしました。
「傷の痛さ、血の熱さが解ったか? ……人は、傷つけられれば、痛いのだ。相手の気持ちを、よく、考えろ。……いいな」
僕の側にかがんで、頭を撫でながら話す父さんの声は、とても穏やかでした。
僕は、なんだか父の言葉に安心して、それからしばらく、余計に泣いてしまいました。

『夢』を見て、それを思い出し、『楽しい』気分になるたびに、この傷が痛み、僕は現実へと戻って来られるのです。

……でも、と思います。こんな、凄惨な風景を思い描いて笑うような人間が、果たして『優しい』なんて言えるでしょうか? とても僕にはそう思えません。
もし、そんなことを軽々しく言ったら、僕は嘘をつくことになる。人を騙すことになる。そんなことだけは嫌です。

『優しいね』と言われると、傷がずきりと、痛みます。だから僕は、いつも笑って誤魔化すのです。