ぶわっ 1

1.喫茶店の風景

 一つ質問をさせていただきたい。
皆さんは、喫茶店に入って、上着を脱ぐだろうか? 僕はもちろん脱ぐ。重たいし、店の中は空調が効いているからね。それに、僕の場合は大抵長居をするから、なおさらだ。でも、そこはそれ、人それぞれだから、『かくあるべし!』なんて言うつもりは全くない。ただ、時と場合により…だ。今回はそんなお話…。

「あ、やっぱり旨い!」
僕は注文したコーヒーを一口すすって、思わず感嘆の声を漏らしていた。しっかりと力強い味、それでいてくどすぎることもなく、後に残るほのかな苦みが心地よい。以前とは比べ物にならない味だ。僕は、自然と顔をほころばせながら、お気に入りのタバコとコーヒーを、交互に口に運んでいた。
ここは、巨大ビジネス街の地下を縦横に走る地下街、その中に何軒もある洒落た喫茶店のうちの一軒。僕はこの辺りに勤めているわけじゃないが、用事があったり、ふらりと遊びに来たりで、この地下街を含め、この界隈には結構来る。で、今いる店の前も、幾度となく通っている。でも、実際に入ったのは、今が二回目だった。喫茶店がよいが好きな僕が、何で今まで入らなかったのか? 理由は簡単だ。看板たるコーヒーが不味かったんだ。どうしようもなく。

随分前、洒落た外観につられて入ったそこは、確かに豪華な雰囲気だった。地上と地下、併せて百席はあろうかという、広い店内。それぞれのテーブルの椅子は、渋い花柄の大きなソファー。壁に掛けられた絵画。ゆったりと流れる、落ち着いた音楽。暖かみのある照明…立地条件も相まって、『豪華な喫茶店』の典型のような店だ。しかし! しかし、だ。わくわくしながら出されたコーヒーを飲んだ瞬間、僕の中のその店の評価は、天から一気に地へ落ちた。
「…………」
コメントのしようがなかった。ただひたすらに、不味かったからだ。

僕は、自分の家でコーヒーをいれるとき、必ず『二番だし』を出す。いわゆる出がらしだ。味も香りも、全く問題外だが、麦茶やウーロン茶の代わりに飲むには丁度良いんだ。
…その時飲んだそれは、まさにその『二番だし』いや、それ以下だった。
辛うじてコーヒーの色は付いているが、味も香りも最底辺。思い切り鼻に神経を集中させれば、僅かに分かる程度の香り。味も、芳醇とは遙かにかけ離れている。注がれた食器は豪華だったが、中身とのギャップが、なおのこと虚しかった。
「(こりゃ、場所代だなぁ…)」
僕はソファーにもたれかかりながら、僕は心の中で呟いた。こういう立地条件の極めていい場所で、しかもこれだけ豪華な内装で、それなりの値段…それでも若干高い…でコーヒーを出そうと思ったら、味が犠牲になるのかなぁ…そんなことを、漠然と考えていた。

『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』って訳じゃないけど、コーヒーの物ではない苦々しさをもって、改めて見渡した店内は、あちこちが気に障る物だった。
座っているソファーは、よく見るとほぼ全て、膝の裏が触れる角の辺りがすり切れ、黄色いスポンジがはみ出している。壁に掛かっている絵も、思い切りもたれると、頭がぶつかる。そして何より、店員に覇気がないのが嫌だった。
注文を復唱するにしても、品物をテーブルに置いた後の「ごゆっくりどうぞ」の型どおりの台詞にしても、ぼそり、ぼそりとしか言わない。別に大上段に構える訳じゃないけど、少なくとも僕は、安らぎを求めて喫茶店に入るわけだ。だから、うわべでも良いから、店員にはハキハキしててほしい。僕は、いつも行くなじみの店の、痩せ眼鏡のマスターと、いつも元気なウエイトレスさんの顔を思い浮かべながら、少しムッとしていた。そして、泥水のようなコーヒーを、いつもの三倍くらいのペースで胃に流し込み、早々にその店を後にしたのだった。二度と来るか、と思いながら。

ところが、それからかなり経ったある日、僕はその店の前でなにやら粗品を配っている姿を目撃した。店に入る客に配っているらしかったが、気になった僕は、それを半ば強引に貰った。手にとって改めて見ると、それはコーヒーの粉だった。粗品にも色々あるけれど、レギュラーコーヒーの粉なんて貰うのは初めてだった僕は、物珍しさも手伝って、早速家に帰って自分でいれてみた。

飲んでみて、驚いた。
びっくりするぐらいに旨かったんだ。無料配布は、豆が変わった事に対する、自信の現れだったんだろうか? ともかく、僕はその味がすっかり気に入って、久しぶりにその店へ入ったのだった。

タバコを吸う手を休め、一緒に頼んだシフォンケーキをパクつきながら、再び店内を見渡してみた。ほつれたソファー、邪魔なところにある絵、何となく沈んでいる店員…どれも改善の跡は見られないのだが、旨いコーヒーを飲むと、気分も寛大になるから不思議だ。
ケーキ…これも味が良くなってるよなぁ…を程なく平らげ、ポットから二杯目のコーヒーを注ぎ、それをすすりながら僕は、ぼんやりと店内を見渡していた。
喫茶店に通うのが楽しいことの理由に、他の客を眺めることがある。あんまりじろじろ見ると変に思われるから、それとなく、でも、じっくりと。

手帳に一心に何かを書き込んでいるサラリーマン風の男性、
分厚い新書を黙々と読んでいる女性、
仲の良さそうに、向き合ってトマトジュースを飲んでいる熟年夫婦、
遠い目をして物思いに耽る老婦人、
大声で盛り上がる派手な服の若者達、
その彼らを苦々しく見つめながら、コーヒーの味に更にしかめっ面を深める初老の男性、
上着も脱がずに一気にコーヒーを流し込み、そそくさと出ていく人、
かたや、上着を脱ぎ、ネクタイまで緩めてくつろぐ人、
旨そうにタバコを吸う人、
その煙に、顔をしかめている人、
なかなか来ないウェイターに文句を言う人、
メニューの中の見慣れない物について質問をする人、
コーヒーの味について語り合う人、
ガラス越しに地下街の通路を見遣れば、
なおのこと忙しそうな人並みの中、
それを縫うようにどこかへ急ぐ人、
店の前で、入ろうかどうか迷う人、
出際に誰かとぶつかり、どちらからともなく謝る人、

…本当にいろいろな人が居る。僕はその、大げさに言えば『様々な人間模様』に、そしてまた自分もその『模様』を構成する色の一つなんだと言うことを思って、なんだかホッとして、ただ、声を殺して笑っていた。