そんな、僕の回りだけゆっくり時間が流れているような錯覚の中、僕は再び、視線を自分の周囲まで引っ張り戻してきた。ちょっと首の辺りがこったみたいだな。そう思った僕は、少し勢いをつけてブン、ブン、と頭を左右に振った。
(ごき くき…)
そんな音と共に、首の関節がほぐれるのがわかる。あんまりやりすぎると良くないのはわかってるけど、気持ち良いんだなぁ…これが。こういった、くつろいだ所でやると、なおさらだ。僕は、両手を右手を頭の上、左手をアゴに当てて、力を込めて右へ頭をねじった。
(ごきぼきごきっ!)
あー…きっと僕の首の骨はどっちかにずれてるんだろうけど、この気持ちよさは、まさに病みつきだよなぁ…思いながら上下の手を入れ替え、左方向へ一ひねり。
(ぐきぐきべきっ!)
ふー…気持ちいい。さて、もう少し鳴らないかな? と、いつしか『首をほぐす』ことから『関節の鳴る音を聞く』事に目的を変えた僕の手が、もう一度最初の方向へ向けて頭をねじったときだ。(ごきゃん)
「いでっ?!」
妙な音と共に、動きが一瞬止まり、視界が暗転する。あーあ、またやっちゃったよ。どっかの筋を、無理な方に引っ張っちゃったのかなぁ…僕は、目を閉じて首をゆっくり回しながら、徐々に視界を明転させていった。
よかった。別になんともないや。店の風景も見えるし、喧噪も聞こえるし、コーヒーの香りも分かる。やれやれ…と、僕は改めて何気なく、店内を見渡した。「んあぁ?!」
思わず、奇妙な声が上がってしまったのは、そこにその通り奇妙な物を見たからだ。いや別に『傍らにはタコ型宇宙人が居た!』とか、『黒くて丸くてブヨブヨした謎の物体があった!』…なんてのじゃない。
僕の隣には、一人の女性が座っていた。でも、いつのまに、というんじゃない。僕は結構長い間ここにいる。だから、客の入れ替わりはあってしかるべきだし、別に僕も、隣にいる人を常に気にいている訳じゃない。それじゃただの自意識過剰野郎だ。
僕がその女性を気にしたのは、ひとえに彼女の出で立ちだった。
顔立ちは…一言で言えば美人だ。つやつやとした、たっぷりの黒髪に、それが乗っている体は、頭身が高いだろうと一目で分かる。突き抜けそうなほど透き通る白い肌、黒目がちの大きな瞳、その流れるような目元はほんのちょっぴり垂れ、見た目の印象を少し柔らかくしている。小さく、でもしっかり筋が通った鼻の下にある唇は、施された深紅の口紅のせいかどうなのか、なんだか妖しく濡れ光っている。…普通だったら、生唾を飲み込んで見とれそうな美人だ。だが僕は、それ以外にも違った意味で、彼女に見とれていた。
彼女の首から下、その体を覆う服は、体のラインを強調する物でもなく、ワンピースでもなく、ツーピースでもなく…淡い紫のトレンチコートだったんだ。しかもダブルの。
別に店の中で上着を着ていることがおかしいなんて言うつもりもない。人それぞれだ。けれど、今は涼しくなってきたとは言え、まだ晩秋と言っていい季節。コートには早すぎる。しかし、隣の彼女は、ダブルの前ボタンをきっちり締めて、ご丁寧にベルトまで締めている。…見ているだけで暑苦しいが、それでも、彼女は汗一つかかずに、優雅にコーヒーを飲んでいるのだ。
『なんか変わった人だなぁ』のレベルではない。明らかに変だ。僕は、まじまじとその女性を眺めてしまっていた。その時…
「…あら…」
僕の視線に気づいたのか、彼女が、不意にこちらを向いた。目が合う。まずい! どう反応すりゃいいんだ?! 「いい天気ですね」…ここは地下街だ。「変わった格好ですね」…いや違う。「良いコートですね」…そうじゃなくて…あーっ!!
僕は横を向いたまま、硬直してしまった。しかし彼女は、ずっと見ていた僕をいぶかしむ訳でもなく、さりとて話しかけてくるでもなく…そう、ただじっと僕を見つめ返していた。何故か、満面の笑みをたたえて。
「あ…あう…」
微笑み返そうにも、引きつった笑いしか出てこない。僕は、そのぎこちない笑顔を無理矢理顔にへばりつけながら、額を伝う冷や汗を感じていた。息苦しい。とてつもなく息苦しい間だ。誰か! 誰かこの忌まわしい間を破壊してくれないか?! 僕は心の中で必死に祈った。
その僕の祈りが通じたのか、背後から声がした。
「お客様、ミルクの方、お下げしてよろしいでしょうか?」
のっぺりと覇気のないウェイターの声も、この時ばかりは天の声に聞こえる。僕は慌ててそちらへ向き直り、「えっ、ええ!」と、上がりかけた息で答えた。…助かった…。僕は胸をなで下ろしたい気持ちで、改めて席の正面を向いた。
「ふぅぅーーーっ…」
タバコに火を付け、ゆっくり、たっぷり煙を吸い、吐く。そこに、ちょっと冷めかけたコーヒーを一口。落ち着け、落ち着くんだ…別に、僕は彼女に何もやってないんだ。話しかけた訳でもなく、まして何かちょっかいをかけた訳でもない。ちょっと変わった女の人と、目が合っただけじゃないか。
「(落ち着け、落ち着け…)」
呟きながら、目を閉じ、タバコと一緒の深呼吸をする。…でもなんか、まだ左半身に視線を感じるぞ…いや! 惑わされてはいけない! 彼女の目を見たらまた、あの気まずい間に逆戻りだ! ほとんど彼女を『その目を見たら石になる』っていう、神話の中の化け物、メデューサか何かみたいに扱ってるな、僕…。ちょっと失礼かも…いや、でも実際、何となく魔性を感じる目、見入った物を離さなくなるような目だよなぁ…って! そんなことを考えてる場合じゃない。落ち着け、落ち着くんだ。僕は喫茶店には、心を落ち着けるために来ているんだ。俗な気分を紫煙と琥珀の風で洗い流し、つかの間のリフレッシュに来ているのだ! 怪しげな瞳に惑わされてはならんのだぁ!
…ほとんど修行僧か何かのような思考が浮かんでは消える。少し俯きかげんで、ブツブツと唇を震わせながら、固く目を閉じている僕の方こそ、端から見れば奇妙だったかも知れない。
どのぐらいそうしていたんだろう? 気がつくと、左半身に感じていた視線が消えた。…良かった。帰ったみたいだな。そう思って、ふうと溜め込んでいた息を吐き、僕はゆっくりと目を開けた。
その瞬間、僕の心臓は一瞬止まった。
「うふふ…」
彼女は、僕の前の席に座っていたのだ。