帰りの車は高速道路をスムーズに走っていく。往きと違ってそこそこの交通量が有るので、法定速度内でのクルージングである。結局あの後、俺たち三人は島からの高速船を降りた港町の食堂兼土産物屋でうどんと焼きハマグリの昼飯を食い、会社の同僚へ干魚の詰め合わせを買って、帰宅の途についたのである。
先程までの薄曇りは一転して空は青く澄み渡り、日もまだ高い。
……眠気を誘うような陽気である。
「友部君、次のパーキングエリア、寄ってもいいかな?」
「…………あ、はい」
諏訪さんの問いかけに対して、俺の返答が一瞬の倍ぐらいかかったのは、脳細胞の92%位が眠りかけていたからだ。
「お疲れでしたら、しばらくお休みになりますか?」
「いや、コーヒーが飲みたくなっただけだからいいよ。それに友部君、さっきビールを飲んだだろう? 私の運転は安全第一がモットーなんだ。だから遠慮しておくよ」
「………………」
本気で言っているらしいので、あえて反論はしなかった。出来なかったと言う方が正しいかも知れない。それくらい自信満々言い切られてしまったということだ。ま、何にせよ車は導入路を通ってパーキングエリアへと入って行く。 やや売店から離れた、駐車場のスミの方へ諏訪さんは車を停めた。少し混んでいたからだ。
「友部君も 何か飲みに行くかい? 美味いコーヒーは無いだろうけど……」
俺がコーヒーの味にうるさいことがいつの間にか職場の内にも知られているようだ。しかし、高速のパーキングエリアで美味いコーヒーを、なんて贅沢は言う筈もない。
ついでに言えば、パーキングエリアで飲むコーヒーも、一種代え難い味わいがある。旅行という、シチュエーションの魔力だな。
「いや、ここで待ってますよ。起こすのも可哀想だし……」
そう言いながら俺はゆーきを指さした。後部座席で頭を前に倒して熟睡している。
「置いていくと、目を覚まして一人でうろうろした挙げ句、迷子になったりしかねませんから。そうしたら大騒ぎですよ」
恐怖に震える俺の演技を見て、諏訪さんは笑いながら言った。
「そうかも知れないな。もっとも大騒ぎするのは友部君一人な気もするが。じゃあ、コーヒーを飲んだ後、缶ジュースを2本買って来るよ」
「ごゆっくりどうぞ」
諏訪さんが売店へ向かった後、俺は助手席から後部座席へ移ってゆーきの隣へ座った。真横からゆーきの寝顔を見ようとしたが、目にかぶさった前髪が邪魔で表情までは判らなかった。男の子みたいだった髪型が、少し伸びたせいか、最近とみに女の子っぽくなってきた。ヘアバンドかカチューシャが似合うかも知れない。今度買ってやろうかな。そんなことを考えながら俺の視線は、嫌が応にも下がっていった。
ヨットパーカーから伸びた腿が眩しい。座っている時の方が、立っている時より裾が上がってしまって露出度が高くなる。理性に黄色信号が灯り始めたので、俺は目の毒になるそこから意図的に視線を外し、腿の上に置かれた小さな手に意識を集中することにした。しかし、手ひとつ取っても男と女ってのは違うもんだな。華奢で、繊細で、美しくて、小指の爪なんかむちゃくちゃ小さいぞ。お、指がぴくぴく動いたぞ。ゆーきのやつ、夢でも見ているのかな。
(スッ……)
ほとんど無意識の内に俺は自分の右手をゆーきの左手の甲の上にかぶせていた。ゆーきを安心させる為か、俺が安心する為か。それともお互いの存在を確認する為か。理由は良く判らない。もっとも、俺の行動すべてに理由を求めること自体、ナンセンスなのかも知れないが。
(キュッ……)
軽く握ってみる。ゆーきの手はさらさらした手触りで、俺の手より幾分温度が低いように感じた。俺の掌の中にすっぽりと収まってしまうほど小さかったけれども、確かにそこに在るという感覚。心の中で愛しさが膨らんでいくのが自覚出来た。
(サワサワ……)
思う存分、ゆーきの手の感触を楽しむ俺。我ながらフェチに傾いているなぁ、そう思うが指が止まらない。それ程にゆーきの手は美しく、柔らかく、愛しかった。ゆっくりと、或いはやや速く、表面を撫でるように、また輪郭をなぞるように。飽きることなく俺はゆーきの指と戯れ続けた。俺がゆーきの掌に軽く爪を立てて引っ掻き、ゆーきが身じろぎするまで。
「……んっ、んん……」
「悪い。起こしちまったか」
謝りながら目を上げてゆーきの顔を見た俺は愕然とした。目は潤み、頬は紅潮して、おまけに唇まで艶やかに濡れているではないか。その唇が小さく動いた。
「……駄目だよ、潤一さん。そんなことしたら……ボク、感じちゃうよ……」
仮定形じゃなくて現在進行形の方が正しいんじゃないか、と思ったが言葉にはしなかった。そのかわり俺はリアシートに押し倒すようにして、ゆーきの唇に自分の唇を重ねた。
「……ん……む……ふ……」
ゆーきの甘い吐息が二人の口の中でこだまする。その声に後押しされたかのように、俺の欲望の燃焼速度は加速した。俺は更に唇を強く押しつけ、乱暴とも言える勢いで舌をゆーきの口の中に侵入させた。
「……んん……んむぅ……」
苦しげに抗議の声をあげるゆーき。だがその中に快感の成分が含まれていることを、俺の耳は敏感に聞き取っていた。俺の舌はますます勢いを増し、ゆーきの口の中で暴れまくる。上下の歯茎をなぞり、裏側からゆーきの舌を突き上げ、複雑に絡め、強く吸った。仕上げに口の上側、天井にあたる部分に、尖らせた俺の舌で小刻みにバイブレーションをかけた時、俺の腕の中でゆーきの身体が微かに痙攣するのが感じられた。どうやら軽いエクスタシーを迎えたみたいだ。俺はいったん唇を放し、ゆーきの下唇だけを優しくついばむようにして再度キスをした。そしておもむろにゆーきの顔をのぞき込む。
「イッちゃった?」
「……もぉ、いきなりなんだからぁ」
慌てて顔をそむけ、俺の視線を外すゆーき。照れているのか、怒ったふりをしているのか。恐らくその両方なんだろう。器用な奴だ。
「悪かったよ。確かにいきなりだったな。ま、目覚めのキスだと思って……」
「ボク、寝てなかったもん。だから目覚めのキスじゃないですよーだ」
おどけるように言った後、ゆーきは急にまじめな顔になってこっちへ向き直った。
「な、なんだか眠れなくって。その……ね、下着を付けないで町の中を歩いてたら胸がドキドキして、顔が熱くなって、頭がぼーっとしてきて、車に乗ってからも全然収まらないの。それで潤一さんに手を撫でられてたら、すごく感じちゃって……。ボクって変なのかな、潤一さん?」
見上げる瞳が少し不安そうだ。やれやれ。
「大丈夫、ゆーきはちっとも変なんかじゃない。可愛らしい女の子そのものだよ」
俺はゆーきを安心させるために、意識してゆっくりと優しく言い聞かせた。右手をゆーきの背中から肩にまわし、左手で髪を撫でる。もたれかかってきたゆーきの体温を感じながら、俺は考えていた。ゆーきがドキドキした原因について、だ。
ゆーきが初めて俺の前に現れた頃、彼女は“うまくいかない立ちション”の実演をして見せた。その時のゆーきは実にあっけらかんとしていて、恥じらいなんてものとは無縁に見えた。恐らく本人の意識の中にもその手の感情は無かったに違いない。……なにせその時のセリフが『いきますよぉー』だったのだ。
だが今俺の横にいるゆーきは、あの時とは明らかに違うゆーきだ。あの時のゆーきは、純粋な意志が結晶化したような存在で、可愛くはあったものの、人としてはどこか異和感を感じさせるところが有った。しかし、今日のゆーきは……なんと言うか、やけに人間くさい、そんな感じだ。下着無しで町中を歩き、他人の視線を意識して、恥じらいを覚える。なんと人間的なことか。恥じらいの気持ちが性的興奮に結びついてドキドキするなんて、人間以外に考えられるだろうか。
かつて何かの本で読んだことがある、人は産まれた時から人なのでは無くて他人と関わることで人になってゆく、という言葉が不意に思い出された。その言葉に大いに納得しつつ、俺はゆーきと視線を合わせた。俺が笑いかけるとゆーきも微笑みで返してくる。ゆーきと俺に“関わり”を与えてくれた何者かに、俺は心から感謝し、強く抱き寄せた唇に、もう一度キスをした。
たかだか半日の小旅行でも、見慣れた市街地に車が入ると“帰って来たなぁ”と思ってしまう。高速を降りて40分、パーキングエリアを出てからだと1時間ちょっとの時間が過ぎていた。やはり早朝の往きと比べて、午後の帰りは交通量が多く、時間も余分にかかる。かなり俺の家へ近づいてはいるが、あと20分ぐらいはかかるかも知れないな。俺は微かな不安を心の中だけに留めるように注意して、チラリと横にいるゆーきを見た。
あのパーキングエリアでの俺とゆーきの“行為”は、結局3回のキス以上にエスカレートしなかった。いや、正確には出来なかった、というべきか。3回目のソフトなキスを終えた俺は、僅かに残った理性がささやいてくれたお陰で、おざなりであっても周りを見回すという動作が出来た。神のご加護か俺の予知能力か、10台程向こうの車の陰から現れて、両手に缶ジュースを持って歩いてくる諏訪さんを発見できたのは、幸運以外のなにものでもなかった。もし、俺が周りを確認していなかったら……いや、考えるのはよそう。背筋が寒くなる。と思った途端、俺の代わりであるかのように、ゆーきの身体がプルッと小さく震えた。本当に微かな震えだったが、お互いの肩が触れ合っているから、よく解る。
「ゆーき、トイレは大丈夫か? なんなら今の内に行っておいた方が……」
俺の推測は間違っていなかったらしい。見る見るうちにゆーきの頬が染まった。しかし、返事は意外なものだった。
「ううん、まだ、ね」
注意力の半分が接近してくる諏訪さんに向けられていたせいで、俺はゆーきの言葉の中の『まだ』について深く考えられなかった。それが俺とゆーきに何をもたらすかも知らずに……。
あの時点から1時間半の未来に俺たちはいる。幹線道路を離れ、住宅地を縫って車は走っている。運転は相変わらず諏訪さん、俺とゆーきはリアシートに並んで座っている。パーキングエリアを出る前に、俺は助手席に戻ろうとしたが諏訪さんの、
「ゆーきくんも目を覚ましたことだし、隣にいてあげたら」
の一言で現在のシート配置に決定したというわけだ。ゆーきはと言えば、確かにその時点では目を覚ましていたのだが、諏訪さんから貰ったジュースを飲んだ後30分ほどしか起きていなかった。それを見た諏訪さんは、ルームミラー越しに俺に言った。
「慣れない遠出で疲れたのかな、ゆーきくんは。友部君、不精してて彼女を滅多に外に連れて行ってないんじゃないか?」
「……はは、人混みはあんまり好きじゃないもんで」
そんな会話を交わしたような記憶があるが、実はその時から俺は気付いていた。ゆーきが狸寝入りをしていることに。運転席の真後ろが諏訪さんから死角になっているのを利用して、怖ろしいことにゆーきは性的快感を楽しんでいたのだ。具体的に言うと、“尿意に耐えること”で快感を得ていたのだ。俺がそれに気付いたのは、例の“眩し過ぎる腿”に思わず目がいった時。眠っているにしては妙に力が入っているような、なんていうか緊張感が有るように見えたのだ。不審に思って更に注意深く観察すると、両膝が非常にゆっくりと、また小さく、摺り合わされていることにも気付く。その瞬間、俺の脳裏にゆーきが今何をしているか、そしてパーキングエリアで言った『まだ』が何を意味しているかが、稲妻のように閃いた。
「!!! ……ゴ、ゴホッ!」
思わず出かけた声を、俺は咳でごまかした。そうか、そうだったのか。“まだ、トイレに行かなくても大丈夫”ではなくて、“まだ、物足りないから我慢して感じていたい”だったのか。ゆーきの気持ちは判った。だが、判らなかった方が俺にとって幸せだったのかも知れない。もし万が一、ゆーきが感じすぎて声を出すか、あるいは我慢の限界に達して漏らすかしたら……。
車が家に着くまでの間、俺は心臓が破裂しそうなくらいスリルを味わうハメになった。だからと言って、俺に打つ手が何かあったわけでも無かったのだが……。