釣りキチ日誌~立ちション講座特別編・秋期臨海学習 1 釣りへ行こう

光かがやく天使のしずく
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「友部君、明日釣りに行かないか、近場の海に」
週末の社内。この唐突な一言からそれは始まった。
声を掛けたのは俺・友部潤一の同僚であり、先輩である諏訪 泰さん。毎度の事ながら回りくどさのかけらも無い物言いであった。もちろん、気配りが無い訳ではない。
「いや、何か用事が有るならいいんだ」
俺が答える前に諏訪さんはそう付け足した。
「用事は無いですけど、俺、釣りの経験も、道具も無いですよ」
困惑の表情を顔に貼り付けたまま、俺は答えた。が、諏訪さんは事も無げに言葉を返した。
「道具は私が余分に持っているし、経験は明日積めばいい。どんなことにも初めては有るものさ」
「……そんなもんですか」
すでに俺は諏訪さんの勢いに飲まれていた。予定のない休日を一日潰して初めての釣りを楽しむのも良いかも知れない、そう思い始めたところへカウンターパンチ。
「明日の朝、6時に迎えに行くから準備の方宜しく。ゆーき君と一緒にちゃんと起きて待ってるんだぞ」
「……もうちょっと遅くなりません?」
恐らく却下されるであろう願いを口にした俺だったが、
「なりません」
これ以上ないほどの、にっこりとした顔で、予想通りの言葉が返ってきた。

そして、次の日。6時ちょうどにドアがノックされた。1分ほど前に車のエンジンの音が近づいてきたので、待ちかまえていた俺はすぐにドアを開けた。そこにはさわやかな笑顔。天気の良さに比例したような表情で、
「おはよう、友部君、ゆーき君。二人とも用意はいいかい?」
と、ご近所に配慮した幾分小声で諏訪さんは言った。
「ええ、ハイキングに行くような格好、でしたよね?」
答えながら俺はゆーきの方を振り返った。
「……みゅっ?」
変な声をあげてゆーきが俺達の方を見上げる。大きめ、というより大き過ぎるといった感じのライトグレイのヨットパーカーと、ふくらはぎが半分見えるスリムジーンズがよく似合っている。あとスニーカーを履けば準備オッケーだ。俺はと言えばチェック柄のウールシャツとチノパンというオーソドックスな……あるいは芸の無い……格好だ。
「俺達の準備ってのはこんなもんですが、諏訪さんのその格好は……」
洗いざらしのコットンのシャツの上から羽織った、やたらポケットの多いオリーブグリーンのベスト。ベージュの作業ズボン。釣り具のメーカー名の入ったキャップに、レイバンの黒のサングラス。
「……魚神さんですか?」
「いやあ、良く判ったね、三平君」
「三平君って誰? 魚神さんてなに?」
当然過ぎるゆーきの疑問に、親切丁寧に説明しようとした諏訪さんを俺は遮った。
「今度、一緒にマンガ喫茶で教えるから、取りあえず今日は魚釣りに行こう、な?」
「……ぶぅー」

高速道路・有料道・一般道と乗り継ぎ、半島の先端部の港町へ。町営の駐車場に車を乗り捨て、高速船に乗って小島に渡り、さらに徒歩で釣りのポイントに到着したのは、俺の家を出て1時間半後だった。
法定速度ならもう少しかかったかも知れないが、諏訪さんの運転は俺の想像していたものよりやや過激だった。車に乗っている間中、俺は助手席で硬直していたのだが、後部座席にいたゆーきは物珍しそうに景色を眺めたり、諏訪さんと楽しそうに会話をしていた。
……恐い物知らず、ってのはある意味幸せなのかも知れない……
二人を交互に眺めながら、しみじみそう思った俺だった。

「到着~。みなさん、ご苦労様でした」
「あ、ここですか」
「と・お・ちゃ・くー!」
そこは50m程の幅を持つ、緩い傾斜のコンクリート敷きの海岸だった。右側は岩場、左側は松林、背後は低い堤防、そして正面は太平洋。
「ここは、ね……」
荷物を降ろし、釣りの準備をしながら諏訪さんが説明してくれる。
「コンクリートが漢字の口の形になってて、その中に天然の石が詰め込んであるよね」
俺とゆーきは自分たちの足元を見た。一辺2mぐらいの正方形のコンクリートが敷き詰められて、それが海中まで続いている。
「……で、その石の隙間に魚が隠れてる訳なんだ。それにコンクリートの向こうの黒く見えるところ」
諏訪さんが指で示した方を俺達は見た。波打ち際から5mくらい沖を、海岸に沿って黒い帯が走っているように見える。
「あそこは海草が生えてて、やはり魚の住みかなんだ。そこから先は沖までずっと砂地なんだよ」
仕掛けをセットし、エサも付けた竿を3本用意し終えた諏訪さんは、俺とゆーきに1本ずつ渡した。一番太い竿は彼自身が使うらしい。
「友部君はこのウキのついた仕掛けで、海草とコンクリートの境目を狙ってみよう。取り合えずウキ下は2.5mぐらいでいいかな。そう、そこに立って。竿先で軽くあおるように放りこんで。よし、オッケー」
仕掛けを投入した姿勢のまま、固まってしまった俺を置いて諏訪さんはゆーきの方を振り向いた。
「ゆーき君は探り釣りだよ。敷石の間を狙って、エサを自然に沈めて釣る方法だ。こんなふうに……」
諏訪さんはゆーきの持っている竿に手を添えて実演してみせる。餌と針とオモリだけで出来た簡単な仕掛けを、すーっと沈めていく。
「竿の先を見ててね。ほら、ポンと跳ねたら、餌が海の底に着いたってこと。ここでゆっくりみっつ数えて何も起きなかったら、魚はいないってことだから、餌が水の上に出るまで竿を持ち上げて、左右どっちかに移動すること。そしてまた、すーっと沈める。ぶるぶるって竿が震えたらリールのハンドルをこっちへ回して巻き上げればいいからね」
ちょっと不安そうだが、持ち前の好奇心の強さが、目の輝きに現れているゆーき。熱心に話を聞いている。
「判りました。取りあえずやってみます」
俺は、力強く決意を表明した。ニコリと笑って諏訪さんが答える。

「何か問題があったら大声で呼んでね。では頑張って、晩御飯のおかずを手に入れましょう」
「はーいっ!」
元気一杯な返事に頷いてみせて、諏訪さんはゆーきから少し離れると自分の竿を伸ばし始めた。流線型の大ぶりな錘の付いた仕掛けは、投げ釣り用であることを示している。諏訪さんは3m程の竿を伸ばし切ると、斜め後ろに大きく振りかぶってそこでいったん、モーションを止め、深く息を吸った。
「……むんっっ!!」
気合いと共に竿の先が弧を描き、空気を切り裂く。数秒後、80m程先の海面に小さな水しぶきが上がった。リールを巻いて糸のたるみを取ってから、諏訪さんは竿をコンクリートの隙間に刺して固定した。そして、ふと気付いたかのように俺に声を掛けた。
「……友部君、姿勢を固定する必要はないよ。リラックス、リラックス」
「は、はあ……」
確かに俺は、5分前から指一本動かせずにいたのだった。どんなジャンルでも、初体験は緊張するもの、とはいえ、さすがにちょっとみっともなかったかな……。

釣り始めて30分程経過した頃、諏訪さんがビールを片手に俺の所へやって来た。糸が絡むのを防ぐため、また竿を振り回す空間を確保するため、俺と諏訪さんの釣り場は15mぐらい離れている。諏訪さんが俺の所へ来たのは、釣り始めてからこれが最初だった。
「ほいよっ!」
「あ、どーも! 頂きます!」
クーラーボックスに入れてあったのだろう、500mlサイズの缶ビールはよく冷えていた。ゆーきも欲しがるかな、と思って辺りを見回すと30mほど離れたところで左手でビールを持ったまま、右手で竿を操っていた。先に諏訪さんがゆーきにビールを持っていったことに、俺は気付かなかったらしい。ずっと波間に漂うウキを見つめてたからな。
「諏訪さん、自分の竿はほっといていいんですか?」
隣に座り込んだ諏訪さんに俺は聞いた。
「大丈夫だよ。竿の先に鈴が付けてあるから何かあったら音で判る」
「……なるほど」
見ると確かに鈴が付いている。いいアイデアだ。
「もっとも、風が強い日はなんの役にも立たないけどね。で、どんな感じかな?」
「恥ずかしながら、魚がいる気配も感じません」
首を振りながら答えると、諏訪さんは俺に糸を巻き上げ、竿を上げさせた。
「ふむ。エサを取り替えてみよう。それとウキ下を20cm程下げて、と。じゃ、さっきみたいに振り込んで……よーし、いい感じだ。ウキを潮に流すように自然にして」
諏訪さん任せで悪い気もするが、素人が手を出すと余計ややこしくなりそうなので、すべておまかせする。それに俺はウネウネするエサを、上手に針に付ける自信が無い。いや、自信でなく、度胸と言うべきか。
「あっちはどんな具合です?」
竿を受け取り、諏訪さんと並んで座り直しながら俺はゆーきの方へ視線を向けて尋ねた。
「筋が良いよ、ゆーきくんは。早くも釣果一匹だ。それでクーラーボックスを開けるためにこれを出したわけだ」
俺が手にしたビールを指さして諏訪さんが笑う。そうか、魚と一緒に入れとくわけにもいかないもんな。ビールが生臭くなっちまう。
「何が釣れたんです?」
「アイナメ。これぐらいのサイズ」
両手の人差し指で示した大きさは約20cm。ほほう、大したもんだ。
「……ふむ」
気が付くと諏訪さんが興味深そうに俺の顔を見ている。俺、なんかしたかな?
「なんです?」
「いや、いい関係なんだな、友部君とゆーきくんは」
突然そんなことを言われて、俺は大いに面食らった。どこにそんな判断材料が有ったのだろう。諏訪さんの話についていけないぞ。
「ああ、そんな大したことじゃないんだ。深く考えないで……」
諏訪さんは笑いながら片手を振った。そんなこと言われても気になるぞ。と、俺の表情を見て、諏訪さんは微笑を苦笑に変えた。どうやら説明してくれるらしい。しかし、俺ってそんなに内面が顔に出るのかな。
「さっきゆーきくんが魚を釣り上げたって話をしたとき、友部君はどう感じた?」
「うーん……ゆーき、やったなぁ、って感じですか。それがなにか?」
軽く頷き、諏訪さんは説明を続けた。
「そこなんだ。友部君の心の中にマイナスの感情が無い。普通同じ初心者が先に成果を上げれば、妬みまでいかなくても焦りぐらいは感じるものだろ。相手が年下ならなおのことだ。それが不思議なことに……」
諏訪さんは俺の顔をじっと見た。真面目な顔だった。
「……まったく無い。だからと言って友部君はゆーきくんに無関心というわけでもない。自分の釣りに集中し過ぎないで、時々ゆーきくんの方も見ている。ね? 私がいい関係だ、って言った理由がわかるだろう?」
「目を離すと危なっかしいですからね、あいつは……」
以前、ゆーきが海で溺れかけた時のことが思い出された。まったくあの時は……。
「ふふっ、友部君は保護者のつもりなんだろうけど、外から見ると……」
「なんですか、もう……」
意味ありげな笑いに抗議しようとしたが、諏訪さんは小声で俺を制した。
「……待った。ウキを見て。あ、竿は動かさないで」
痙攣しているかのようにウキは小刻みに上下動していた。ど、どうしたらいいんだ?
「私が合図したら、手首から先をしゅっと鋭く返して。……まだ……まだ……」
諏訪さんのアドバイスに俺はウキを見つめたまま、カクカクと首を振って返事した。始めた時の緊張が一瞬にして甦ってしまい、全身の筋肉が硬直していくのが自分でも判る。判ってはいるけど、どうにもならない。と、二人の視線の先にあるウキがすうーっと斜め下に沈んだ。
「今だ、友部君!」
諏訪さんの言葉を理解するより速く、反射的に俺の体は動いていた。跳ね上げた手首に確かな重量感。弓なりになった竿先がブルブルッと不規則に震える。
「よし、リールを巻いて。素早くスムーズに……遅すぎると魚が岩の間に潜ってしまうからね。そう、そんな感じだ」
諏訪さんの指示通りリールを巻いていく。
(ガツッ!!)
あう? 急にリールが巻けなくなったぞ? なんだ? 何が起きたんだ? ああっ、ウキが竿の先の輪っか(ガイド、と呼ぶらしい)に引っかかってるじゃないか。どうしたらいいんだ?
「友部君、リールはもういいから、竿を立てたまえ、こんな風に……」
「は、はいっ!」
諏訪さんのジェスチャーを真似て竿を垂直に立てる。軽い水音と共に、目の前の海面を割って銀色の物が飛び出し、顔に向かってきた!
「うひゃっ!」
情けない声を上げた俺の顔の10cm手前で、その物体は急停止した。物体のすぐ上には人の手。どうやら諏訪さんが糸を持って、魚が俺の顔に衝突するのを防いでくれたらしい。
「友部君、おめでとう。これが君の最初の獲物だ」
「……あ、ありがとうございます」
まだ胸がドキドキしていたが、かろうじてお礼の言葉は言えた。やや心が落ち着くのを待って、俺は改めて『獲物』とやらを観察した。グレーの濃淡がギザギザの縞模様になっているのが特徴的な、目の大きな魚。サイズはやはり20cmくらいか。しかし……なんて名前の魚なんだろう? 俺、あんまり魚のことは詳しくないからなあ。
「メバルだね。タケノコメバルって呼ばれてる魚だ」
グッドのタイミングで諏訪さんの説明がはいる。そっか、メバルか。聞いたことのある名前だ。たぶんスーパーの魚売り場だろう。
「喰えるんですよね、諏訪さん?」
「煮付けにすると最高だよ。これで今晩のおかずは確保したね」
諏訪さんの言葉で連想したのは、食卓に20cmの魚が一匹だけ乗っている光景だった。
……寂しすぎる。もうちょっと頑張って、あと何匹か釣ろう。

つづく

 

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