「よし、こんなもんだな」
俺は、バンダナを突き抜けて額ににじんだ汗を、ホコリまみれの袖口で拭い、大きく息をついた。
「こっちも終わったよぉー!」
後ろから聞こえる、元気な声。どんな顔をしているのかは、見なくても分かる。
「よし、お疲れ、ゆーき」
「うん! 潤一さんもお疲れさま!」
パンッ! と元気よくハイタッチ。狭いワンルームマンションとはいえ、年末の大掃除は結構大変だ。もっとも、ゆーきと一緒に暮らすようになってからは、ずいぶんと楽になったんだが。
「さっぱりしたね!」
「ああ、そうだな」
少しホコリにすすけていても、ゆーきの笑顔はこの上なく光る。見ている俺も、つられて微笑む。俺は、スッキリと片づいた部屋をもう一度満足げに見渡してから、ゆーきに言った。
「さあて、そんじゃシャワーを浴びてから、メシ食いに行くか?」
「わあい!」
バンザイをしながら喜ぶゆーき。こういう反応をしてくれると、俺も言うかいがあろうってもんだ。そして嬉しさが移ったあまり、俺はゆーきを抱き寄せて、思いっきり頭をくしゃくしゃと撫でた。コイツの髪のセットを気にする必要はない。どうせシャワーを浴びるんだから。
やはり、冬のユニットバスは冷える。すすけた身体を流し合って、一戦交える事は考えずに出て、手早く着替える。いつも元気なゆーきだが、夜に次いで寒いのが嫌いなのだ。だから、乾布まさつ気味ぐらいに体を拭いてやると、少し喜ぶ。
「よし、行こう!」
「ん!」
上がった勢いのまま、俺達は支度を住ませ、少し早めの夕食へと向かった。会社は仕事納めを終えて休み。ゆーきの家事も、しばらく休みだ。
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・
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クロスシートの車窓から、軽快なテンポで景色が流れていく。
俺は、古本屋できまぐれに買った古典文学の文庫本を流し読みしながら、結局はボンヤリとしていた。
読むのに引っかかって、顔を上げる。向かいには、座席に立て膝をついて食い入るように景色を眺めるゆーきがいる。
「なんか、おもしろいもんが見えるか?」
「んーとねぇ、さっき、『あなたはそろばんができますか?』って質問だけの看板があったよ!」
「ふうん……」
特にどう返すこともなく、俺は再び手元の活字に目を落とした。ゆーきも、別に何も言わない。
「……ぅ……ん……」
細かい文字を見つめ続けているうちに、俺は眠気を覚え、船をこぎ始めた。かすかに残った意識で本をしまい、時計を見る。後2時間は眠れるはずだ。
『ゆーき、俺、ちょっと寝るからな』
そう言おうと思って前を見ても、誰もいない。
「あっ……」
その本人は、既に俺の膝枕の上で、微笑みを浮かべたまま眠っていた……。
「っ……んーー……ぁ……」
「ふにゃ……はあぁー……あふ……」
申し合わせたように二人でのびとあくびをしながら、駅を出る。家から電車を乗り継ぐこと4時間。ここから、バスでさらに20分ほど行ったところに、目的地……俺の実家がある。
ゆーきと暮らし始めて三年目。二回目の正月になるのかな? 前は色々あって帰れなくて、ゆーきを紹介出来なかった。両親には、以前から電話で話を伝えているし、話させたこともある。ついでに写真も送っている。でも、直接会わせるのは初めてだった。
「…………」
「ん? 潤一さん、どしたの?」
ふと見下ろした先にある、きょとんとした大きな目。もしかしたら緊張しているかも知れないという俺の心配は、全くのムダだったようだ。
「(いや、変に緊張してるのは俺の方か……)」
やれやれ、というため息を紫煙と共に吐き、俺はバス乗り場の吸い殻入れにタバコを捨てた。
まだ周囲に所々田畑が残るような静かな住宅街。その一角に俺の家はある。昔はこの田舎臭さが嫌で仕方なかったんだが、やっぱり帰ってくると懐かしい。
「ただいまー」
「こんにちはーっ!」
自然とちょっぴり弾む声の後に、今回はもっと元気な声が続く。
「ああ、お帰り、潤一」
ほどなく、奥からかっぽう着を着た母さんが出てくる。この間還暦を迎えたからというわけでもないだろうけど、元々小柄な身体が、もっと小さくなった気がする。ずっと昔から変わらない、もこもことした髪型が、なんだか目立って見える。
「ただいま、母さん」
「お帰り。あっ、その子が……?」
「はい! 神原有紀です! はじめまして!」
俺が言うまでもなく前へ出て、ぺこりと頭を下げるゆーき。まったく、いつも通りだ。
「潤一の母の、君枝です。よろしくね、ゆーきちゃん」
実際に感じるゆーきの元気さに少し驚く母さん。でも、すぐに柔和な笑みで静かに礼を返す。
「さあ、早くお上がり」
「うん」
「おじゃましまーす!」
母さんにうながされて、俺達は客間の和室へと向かった。いつもは自分の部屋に行くだけに、なんだか新鮮だった。
「ふぅー……」
実家に帰るためとは言え、4時間以上の移動は疲れる。季節柄も手伝って、もう暮れかかっている外を眺め、熱い緑茶をすすりながら、長い息をつく俺。そこに、ゆーきのため息が重なった。
「このお茶、おいしいね!」
さすがのコイツも疲れたか……と思ったら、純粋にお茶を味わう声だった。ゆーきの元気は無尽のようだ。
「なあ、ゆーき……」
「ボクね、これからお母さんを手伝うよ! お節料理、作ってるでしょ? ボクも覚えるんだ!」
特に予定はないからダラダラするか? と言おうとしたところに、すかさず返す声。その目は、いつになく輝いている。やっぱり、実際に母さんに会えて喜んでいるみたいだ。
ゆーきの素性――もちろん、対外的な物だ――は、以前母さんに話した。そして母さんは、初めてゆーきと電話で話したときに言ったんだ。『私のこと、母親と思って良いのよ』と。
嬉しく、そして有り難かった。
自慢じゃないが俺の母さんはとても優しい。孤児と天使という事実の違いこそあれ、ゆーきにちゃんとした親がいないということには変わりない。母親特有のぬくもりは、どうやっても俺には与えられない物だ。だから俺も、ゆーきに母さんと呼べる存在を作ってやりたかった。
「(それに……)」
嬉々として電話ごしに話す二人の側で、俺はこっそり続けた。
それに、いつにするかは決めてないが、いずれ正式にそういう続柄になるんだから。
「うん! おいしかった! そんじゃボク、お台所行ってくるね! 潤一さんは、寝てていいよ! 疲れてるでしょ?」
言うが早いか、ゆーきはさっさと行ってしまった。
「ま、まあ……な」
俺は、あっけにとられて応接間の扉につぶやくのがやっとだった。
「うーん……」
不思議な気分だった。実家とはいえ、応接間に一人ぽつねんとしているのが落ち着かないのだ。
「あっち、行くか……」
俺は、きゅうすに湯を足しに行くという理由を作り、自分自身への照れ隠しにひとりごちて、二人がいる台所へと向かった。
台所でのお節料理作りは順調だった。棒だら、黒豆、ごまめ、きんとん……独特の食材が、あるものはあらかた出来上がり、あるものは調理を待って、所狭しと並んでいる。
「あれ? 潤一さん、どうしたの?」
ほうろうナベに入ったさつまいもを、すりこぎでつぶしていたゆーきが俺に気づく。
「ひょっとして、寂しかった? 潤一? うふふ……」
それに続く、母さんの笑い声。「な、何言って……」と反抗してはみたものの、その通りだから仕方ない。さすが母親、息子の性格はきっちり把握している。
「えへへぇ……」
それを見て、ゆーきが嬉しそうに微笑むものだから、俺はいよいよどうしようもなくなってしまった、
「ねえねえ、潤一さん! 見て見て!」
その笑みのままで、手招きをするゆーき。のぞき込んだ先には、几帳面につぶされた芋があった。
「あとは、栗を混ぜるだけか?」
「うん! 出来たら、一緒に味見しよう!」
「ああ」
そして、出来合いの栗の甘露煮が鍋に入る。甘い匂いと共に、芋が、クチナシの優しい黄色に染まる。
「よおく混ぜて……っと。はい、できあがり!」
「どれ……」
さっそく、ひとつまみ食べてみる。ぺっとりと甘い、懐かしい味が口に広がる。
「うまいな」
「やった!」
ブイサインを作るゆーき。確かに、上出来だ。
「あとね、これもボクが作ったんだよ!」
指さしたのは、ボウルに入った酢ゴボウと酢レンコン。どれも、それぞれ味見してみたが、まさに、いい塩梅だった。だが、例えばどんぶりいっぱいに食えと言われたら遠慮したい。おせちってのはそういうもんだと思う。試食は程々にして、俺は言った。
「ところで母さん、なんか、手伝うこと無い?」
「そうねえ……あっ、しめ縄と門松を飾るの、忘れてたわ。それお願いね」
「うん」
用事が出来ると、とたんに気持ちが慌ただしくなる。年末特有の気持ちだ。俺は、ある意味で嬉々としながら、押入の中から脚立を出していった。
「はあ……やれやれ。一息ついたな。ごっそさん」
「おそば美味しかった! ごちそうさま、お母さん!」
「はい、お粗末様」
用事が終わって、年越しそばも食べ終わった。ちなみに、そばのつゆはきちんと煮干しでダシを取っていて、さらに具としてニシンまで乗って、最後までうまかった。
後は日付が変わるのを待つだけだ。父さんは、ゆーきとあいさつしてからさっさと寝てしまった。不思議がるゆーきに、「あの人、ゆーきちゃんが可愛いから、照れくさいのよ」と、母さんはクスクス笑って返した。
ボンヤリと年末恒例の歌番組なんかを見ながら、やがて、日付が変わった。
俺は、おもむろに正座し、母さんに向けて手をついて頭を下げながら言った。
「母さん、本年もよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
ちょっと時代錯誤かも知れないが、年施行例の我が家の儀礼だ。
急に始まった儀式に、ちょっとびっくりしていたゆーきも、
「ボクも、よろしくおねがいいたします! お母さん!」
俺をまねて、同じように頭を下げる。母さんはもう一度にっこりほほえんで、
「よろしくね、ゆーきちゃん」
と、言った。
「それじゃ、行って来るよ。すぐ戻るから」
「暗いから、気をつけるんだよ」
「分かってるって。んじゃゆーき、行くぞ」
「はあい!」
それからさらに一息ついて、俺達は出かける支度をして家を出た。すぐ近所の神社に、初詣に行くためだ。
「うー……暗いよぉ……寒いよぉ……」
思いっきり厚着をして、さらに首をすくめながら歩くゆーき。俺は、震えるその肩を、抱き寄せながら諭した。
「着いたらいいもんがあるから、辛抱しな」
「はあい……」
「ほら、もう見えてきたぞ」
「あっ……」
指さす闇の先に、にぎわいが見える。今年も、この神社には地元の人がたくさん参拝に来ているようだ。露店こそないものの、ちょっとした縁日のようだ。
「よし、そんじゃお祈りするか」
「うん……」
気持ちを少し神妙にして、しばらく祈る。
「…………」
「…………」
終わってから、見つめあってお互いに交わす微笑み。願い事の中身は、言わずもがなだった。
「よし、そんじゃゆーき、『いいもの』を教えようか。こっちだ」
「なになに?」
俺が向かったのは、神社の片隅。甘い匂いが立ちこめる人だかりだった。
「あー……いい匂い……。潤一さん、真ん中に何があるの?」
「この神社手製の甘酒だよ。あったまるぞ」
「わーい! たのしみー!」
列に並んでしばらく、紙コップに注がれた熱々の甘酒を手にする俺達。コウジの匂いと、ショウガの香りが、すでに鼻から暖かい。すすれば、くどいぐらいの甘さと、ちょっとした辛さが、夜の空気にちょうどいい具合だ。じんわりとした暖かさが、胸から全身に広がる。
「うん……うまい。変わってないな、ここの味」
「おいしいね……」
ほっこりとした雪の子の向こう、頬を染めたゆーきの笑みが浮かぶ。そういう顔を見ると、なおのこと甘酒がうまくなる。
「ふうぅーっ……」
二人して空を仰ぎ、星空に向けて細長い満足の吐息をつく。
「そんじゃ、暖かいうちに帰るぞ」
「うん」
俺達は、今度は足早に帰途についた。ゆーきの肩は、もう縮こまっていなかった。
家に帰ると、母さんは書き置きを残してもう寝ていた。
「なになに……『風呂を沸かしてあるから、入って寝なさい』か。ありがたいな」
「潤一さん! 一緒に入ろうよ!」
「そうだな」
二人して湯船につかり、じんわりと暖まる。
「じゅーんいーちさぁーん……」
すり寄ってくるゆーきを腕に抱く。すべすべとした柔らかな感触が、もう一段心を暖かくする。
「ゆーき……」
「ん……」
ちゅっ……
静かに、唇を重ねる。ゆーきの甘い口の中を舌でさぐると、神社で飲んだ甘酒に入っていたコウジの粒が一つあった。
「ぷわぁ……はあっ……」
くたり……と俺の肩に崩れるゆーき。ぽつり、ぽつりと言う。
「ありがと……潤一さん……」
「うん?」
「すごくすてきなお母さんで……ボク、嬉しい……。潤一さんが優しいの、よく分かるよ……」
「そうか?」
「ボク、ホントに嬉しい……」
「良かったな、ゆーき……」
「うん……。潤一さん……ずっと一緒にいようね……いてね……」
「あっ……?」
風呂の湯とは違う熱い雫が、俺の肩にこぼれる。
俺は、何も言わずに、より強くゆーきを抱きしめた。
それからの俺達は、正直言ってかなり燃えた。二階には両親が寝てるから大声は出せなかったが、汗まみれ、オシッコまみれになって愛し合った。
え? 客間の布団だろう、って?
確かに、布団は思いっきり汚れた。
だって、母さんからの置き手紙には、最後にこうあったからだ。
『布団の汚れは気にしないように。お前の部屋の寝床も、整えてあります』
……と。
「理解があるなって、喜ぶべきなのかなあ……」
「んふふ……やっぱりいいお母さんだね!」
俺は、自分の部屋のシングルベッドで、ゆーきと身を寄せ合いながら、初苦笑いを浮かべた。
―おしまい