「寒いね……」
「えぇ……」
コツコツと言う足音が、眼下の闇に吸い込まれていく。
空調でも効いているのだろうか、足下から冷たい風が吹き抜ける。
そして、何段ぐらい降りたのだろう。横幅が狭いことと、段差がきついこと、さらに慎重を期す挙動が、距離を実際より長く思わせる。
やがて
“タンタン……”
優人の踏み出すつま先が、軽く2,3度音を立てる。どうやら、段はもう無いようだった。
「どうやら、終点のようですね」
肩越しに静を見遣る。
「……ん?」
自分たちが降り立った所は、ちょっとした小部屋のような広さだ。そこから前方に、大人3人分ほどの幅の道が延びている。程なくして左に曲がっている。が、優人は、その先がほのかに白んでいることに気づいた。自分が今居るこの場所の明かりとは違う。こちらを電灯とするなら、さしずめあちらは蛍光灯だ。“ザァッ!!”背筋から四肢へ。多量の蟲が走る感触がする。冷や汗が一筋、顔を伝う。
「……やっぱり、怖いの?」
背後から声がする。意地悪と言うより、本当に心配そうな声だ。
「……いえ、別に……」
努めて冷静に返す。が、ある意味、優人は怖かった。再三感じてきた『連想』が、現実になりそうで、だ。しかし、そうは言っていられない。彼が、鉛のように重くなり始めた足を一歩踏み出そうとしたときだ。
「じゃ、アタシ、偵察してきて上げるよ」
静が、小走りに駆けだした。
「あっ……!」
驚くが早いか、彼女は、眼前の角を曲がった。が、次の瞬間
「ひぃっ……!」
息を極限まで吸い込んだような悲鳴がした。同時に、
“どさり……”
反響音を残して崩れ落ちる静の姿。
「……!!」
全力で静の許へ向かい、優人も、角を曲がった。
・
・
・
「こ……れ……は…………!?」
あまりの驚きに、顔を構成する部品が四散する。
優人の『連想結果』は正解した。いや、不正解とも言えるかも知れない。『予想』を遙かに上回る異様さという点で。
果たして、そこには、無数の『女性』が居た。
だがしかし、女性たちは侵入者を咎めない。なぜなら、物言わぬようになって久しいからだ。女性たちは動かない。なぜなら、命の灯火が消えているからだ。しかし、女性たちの姿は美しかった。なぜなら、防腐剤と、この部屋の温度が肌に良いからだ。女性たちは、揃いの服を着ていた。細部の違いはあれど、皆同じ。
――裸に、おむつ、よだれかけ。
「……くっ……」
ぎりりと歯ぎしりの音が響く。この光景を創り出したであろう黒沢翁に対する怒りと、自分の予感が当たってしまったことへの遣る瀬なさでだ。
「……はっ! 静!」
眼前の空間を睨み付けていた視線を。傍らに戻す。
静は、普段の快活な表情を蒼白に染め、ぐったりしている。
「……しっかりしろ……よっ……」
ゆっくりと抱え上げ、元降りた場所へ一旦引き返す。
「誰もいない……な」
さっきまでここにいたのだが、用心のため、あたりを見渡す。二人以外に、生きている人間の気配は、ない。
「よっ……」
自分が足を投げ出すように座り、静の頭を腿のあたりに乗せて横たわらせる。ポケットからハンカチを取り出し、顔中ににじんだ汗を、そっと、拭いてやる。
「……っと、あった」
コートのポケットを探る。取り出したのは、5センチほどの、円筒形の小瓶。キャップを外し、静の鼻に近づける。
「んんっ……」
微かに、頭が動く。どうやら気づいたようだ。
「……ん?」
静が、ごろごろと頭を揺すっている。子どもがイヤイヤをしているようだ。
「くっ……使うべきじゃなかったか……?」
舌打ちと共に、眉をひそめる。
優人が使ったものは、揮発性の、気付の薬だ。鼻から吸入するもので、即効性がある。が、常用すると、血管が脆くなるなどの副作用もある。緊急のときにしか使わないようにしているが、他人、特に女性には使ったことがない。
迂闊だった……どうすればいい……?と、動転した折の自分の行動を恥じていたときだ。
ふと、静の頭の動きが止まった。覗き込む優人の顔に相対し、薄目を開けて、唇を突き出している。
「…………」
無言の返答として、額をはたく。
「……痛ぁい。ちぇっ、どうせなら王子様の優しいキスで目覚めたかったなぁ……」
残念そうに口を尖らせながら、むくりと起き上がる。
「『ちぇっ』じゃない! 心配したじゃないか! 静!」
場所が場所だけに、大声は出せないが、できる限りの怒声で静を怒鳴る。
「……あ……へへっ」
優人の意に反して、微笑む静。
「笑って誤魔化そうったって……」
「そうじゃないよ。いつもの馬鹿丁寧な言葉じゃないマーくん、久しぶりに見たからだよ。それと……やっと……あたしのこと、『静』って呼んでくれた」
「あっ……」
改めて、口に手をやる優人。
「ふざけたのは悪かったわ。でも、嬉しい。本当に……」
地上で見せたものとは違う涙が、一粒、細めた目に浮かぶ。
「………………」
その場所に不釣り合いな、柔らかな空気が一瞬、流れる。
「と……とにかく! 目が覚めたのなら、行きますよ」
努めて、普段の口調に戻そうとする。
「……OK」
こちらもすぐに顔を引き締め、うなずく。
「目を閉じて。僕の手を離さないように」
曲がり角に戻り、互いに手を握る。
「行きますよ……それっ!」
“だっだっだっだっ……”
『彼女たち』の居る通路を、一息に駆け抜けようとする。
『(うふふふふ……あはははっ……)』
どこからともない多数の『視線』と共に、そんな笑い声も聞こえる気がする。
「くっ……」
長い。見た目には、50mもないのに、前に進んでない気がする。
この世ならざる風景が、現実感を失わせる。
静と繋がる手を確認する。少し力を込めると、握りかえす感覚が伝わる。
……走りながら、優人の頭の中は、さまざまなイメージが渦巻いていた。
『彼女たち』の幾人かと、目が合う。眠るような顔の者、微笑む顔の者。子供が浮かべる泣きべそのような顔の者。目が合うたびに、『彼女たち』の生前のこと、ここへ至るまでの経緯、きっと居るであろう親兄弟のこと……遺された者たちの心境はいかばかりか……凄まじい量のイメージが、凄まじい勢いで頭を巡る。……優人は、奥歯を噛み締めながら、怒りを渦巻かせていた。
やがて、突き当たりへたどり着く。
「はぁ、はぁ、はぁ……もう、大丈夫ですよ」
静に促す。
「……うん」
おそるおそる、目を開ける。
「ほら、解りやすい」
優人が視線を向けた先には、エレベーターがあった。
「乗るしかない……ってことね」
「そうですね。……どうします?」
軽口を叩いていても、やはり彼女が心配だ。ここから先は、危ない空気がひしひしと伝わってくる。何があるか解らない。今ならまだ、引き返せますよ……と言おうとしたときだ。
「……ってっ……?」
不意に、額をはじかれる感触を憶えた。我に返ると、静が背伸びをして、真っ直ぐ目をのぞき込んでいる。
「同じシチュエーションは、ないよ。だから……」
地上で見せた眼差しを、悪戯っぽい表情で隠し、彼女は、エレベーターのボタンを押した。
“ひゅうぅ……ん”
静かな音を立てて、ドアが開く。
「……行きますか」
静の方を少しだけ見遣り、二人はエレベーターに乗り込んだ。