茶店(サテン)語辞典~立ちション講座・番外編

非18禁作品
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「はぁー……」
何度目かのため息をつきながら、俺は会社からの帰り道を歩いていた。肩は上空の空気を体積分全て背負い込んだように重く、それを支えきれない足は、鉛のようだった。
「ふぅー……」
何度ため息を付いても、体の中の澱んだ空気は一向に出ていく気配はなく、その自分の声だけが、更に気分をどんよりとさせていった。

この気分の原因は、簡潔に言えば、仕事上の失敗だ。明らかな自分のミス。……思い出すだに、口の中にいくらでも苦虫がわいてくる。ま、もう社会人一年生じゃないんだ。これをずっと引きずるわけでもない。ただ、この体に澱んだ空気だけでもさしあたり入れ換えたいな……そう思った俺の足は、家の近くの商店街を少し外れたところにある、いつもの喫茶店に向かっていた。

(カラン……カラン……)
聞き慣れたベルの音と共に、俺は店内に入った。鼻を突くコーヒーの香りが、今はホッとする。
「いらっしゃいませ……やぁ、友部君。こんばんわ」
「ちわッス……」
気分が重いせいで、いつものヒゲのマスターへの返事も曖昧になってしまう。
俺は、フラフラとカウンター席の隅に腰掛け、ノロノロと背広の上着を脱いで、隣の席にそれを掛けた。
「何にする?」
まとう空気の違いに気づいたのか、マスターはカウンター越しにお冷やとおしぼりを置くと、短く訊いた。
「炭焼……一ついただきます……」
注文の後にも、ふぅ、という小さなため息が付け加わってしまう。
「炭焼珈琲ね」
これまた短い復唱の後、俺の前から気配が消えた。

「……………………」
ワイシャツのポケットから煙草を取り出し、モソモソと火を着ける。カウンター越しに消えゆく紫煙を見るともなく眺めながら、俺は、背後に広がる店の空気へ意識を溶かしてみた。
聞こえてくるのは、まさに老若男女の、種々雑多な会話。……ま、それぞれに聞き耳を立てるような趣味は、俺にはない。が、確かに感じるのは、いつも通りの活気だ。あいかわらず繁盛している。学生時代からしょっちゅう通うこの店の繁盛の理由は、駅に近いという立地条件もそうだが、何よりマスターの腕によるところが大きい。ズバリ、旨いのだ。俺含めて、固定客……いわゆる常連も結構居る。勤め始めてからは、以前のように頻繁に来られなくはなったが、それでも、週末なんかには良く来る。ま、生活サイクルの一部になってると言えるかもな。

「おまたせ」
やがて、そんな声と共に一際強いコーヒーの香りが、俺の鼻の前で濃厚な会釈をした。ここの炭焼珈琲は、一際香りが強い。昔はそのクセの強さが今ひとつ好きになれなかったのだが、煙草を吸うようになってからは、そのクセが妙に相性がいい。今のように、頭の中の何かを追い出したい時、俺はコイツに頼る。角砂糖一つとミルク少々を入れ、おもむろにかき混ぜる。ミルクに負けない香りを持つコーヒーってのも、珍しいよな。ずずっ……とすすった口から鼻に吹く、琥珀色の風。……心地よいのは確かだが、まだ俺の頭のもやを消すには足りないな……。そんなことを思っていると、
「彼女と喧嘩でもしたのかい?」
あくまで淡々とした風を装った、マスターの声がした。……しまった、余計な心配させちまったかな……。俺は、顔を上げて答えた。
「いえ、そうじゃないッス。ま、サラリーマンにありがちな、いつもの悩み……って事にしといてください。ただ……このまま家に帰って、あいつに、今の俺の顔、見せたくないんで……」
「ふふふっ……ごちそうさま、だな」
マスターはにやりと笑って、それから先は言わなかった。再び、喧噪だけが俺を包んでいった。

煙草とコーヒーを交互に口に運びながら、暫くたった。最初の煙草をもみ消し、二本目に火を付けようとした時だ。不意に、マスターが話しかけてきた。
「ところでさ、友部君」
「はい?」
ボーッとしていたため、間の抜けたトーンになってしまったな、と俺が気づいたのは、声が出た後だった。
「理想の喫茶店……って聞いて、どんな店を思い浮かべるかい?」
「な……何スか? 突然……?!」
突然の質問……しかも、脈絡がないように思えるその質問に、俺は更に間抜けな顔になってしまった。マスターは、そんな俺の顔に少し笑ってから、こう続けた。
「いや、君のそのくらぁい顔を見ていると、思うんだな。せっかくお金を貰ってるんだ。他はどうか知らないけど、少なくとも私の店ではお客さんにそんな顔をして貰いたくない。それが、この店の主の、私の願いだ。で、ふと思った。そう言えば、お客さん-たとえば友部君が、“あったらいいな”と考える店って、どんな物かな……って。君、ここに通って長いだろ? コーヒーのこだわりの話も良く聞いたよ。だから、一つ教えてくれないかな?」
多少話の振りが強引な気もするが……やっぱ、気ィ遣ってくれてんのかな……俺、そんなに嫌な顔してたんだろうか? ま、いいや。この際だ、何でも良いから、喋って憂さを晴らすとするか!

「うーん……そうッスねぇ……」
煙草を一息吸ってから呟き、俺は、改めて店内を見渡してみた。
慌ただしくバイトのウェイトレスさんが歩き、喧噪は絶えることがない。ひとしきり眺め終わった目線は手元のカップに戻り、思い出したように一口すする。やはり旨い。俺は、改めてその香りを楽しんでから始めた。

「まずなにより、コーヒーが旨いことッスよね。たまにありますよね、出がらしみたいな薄くて不味いの出すところ。それと、たくさん一気にいれて置いて、電熱で暖めてるもんだから、煮詰まっちゃってるの。ああいうのは論外ッス」

あるんだよな、そういうところ。俺の経験では、内装が豪華であればあるほど、その傾向が強い気がする。しかし、たまに見つける、時間が止まったように古ぼけたゲーム喫茶なんかだと、そっちの方がイメージ通りだという気もするが。……偏見かな?
後は、コーヒーのバリエーションが多少あった方が良いな。ホットとアメリカンだけじゃ、ちょっと寂しいもんな。ちなみにここは、五種類のストレートコーヒーに、ウインナ、シナモン等のアレンジコーヒーがある。結構楽しめる部類だ。
「通ってくれてるって事は、ここは合格な訳だ」
ホッとしたような、でも、よく見ると自信に満ちた顔で、マスターはニヤリと笑った。その顔に、俺は冷やかすように言った。
「でも、ウェイトレスさんがいれると、ちょっと……ですよ。ちゃんとコツを教えてあげないと」
「私には腕が二本しかないからね……忙しいときはやっぱり彼女たちに任せざるを得ないんだ。それ一つ、聞いておくよ。他には?」
促す彼に、俺は再び視線を一巡りさせてから続けた。

「内装……ですかね、やっぱ。俺は、ここみたいに渋いのが好きですけど、渋いと見せかけて、実はボロっちいだけ……ってのは勘弁して欲しいッス。後は、内装が凝ってても、汚らしい……とかね」
この店の内装は、焦げ茶系統で統一されている。そこに、電灯の薄黄色の光が淡く映えて、実に俺好みの、落ち着いた空気を演出している。テーブルや床も、マスターの性格を表すかのように、とても綺麗だ。……これまたたまにあるんだよな。内装が良くても、ソファーがいかれてたり、机の並びが乱雑だったり、変に床が粘ついてたりする所。後、どうせ置くなら、観葉植物は枯らさないでほしい。その点、ここは潔い。置いてあるのは最初から造花だ。「そこまで手が回らないからね」とは、マスターの弁。こういう忙しい店の場合、その判断は正解だ。欲を言えば、本物の方が良いけど……ま、最近の造花は良くできてるからな。見た目に殆ど区別は付かないんだが。やっぱ、入り口に傷んだ鉢植えがあったら、客の心までしなびるもんな。
「飲食店が汚いのは、論外、だね」
ウンウンとうなずくマスターに、俺も短く頷いて返す。

「それから、適度な広さ、ってあると思うんですよ。人それぞれだとは思うんスけど、俺は……たとえばあるじゃないスか。地下に百席ぐらいあるでっかい店。ああいうのも落ち着かないし、カウンターだけの、肩が触れ合うような所ってのも、窮屈で嫌ッスね……」
ここの座席数は、全部あわせて二十五ほど。座席数としては丁度良いのだが、テーブルの間隔が若干狭いため、窮屈な感は否めない。
「うーん……雇われ店長ならまだしも、個人で経営するとなると、土地の値段とかがあるからねぇ……難しいね」
……そうだよな。現実には、いかんともしがたい、先立つものの問題がある。
「最初はここも、もっと席は少なかったんだ。でも、入りきれなくて引き返すお客さんが多くてね……それで増やしたんだ」
俺も、入りきれなくて引き返す客を、たまに見かける。……どれだけ増やしても、入るところには入るんだな。客は良く知ってるんだ。

「味、内装、広さ……と来たら、次はさしずめ、BGMって所かな?」
「あ、当たりッス。全くの静寂って、怖いッスよね。外の雑踏がBGM代わりになるところなら良いですけど、静かなところにある店で、何も流れて無くて、しかも客が俺一人だったら……なんか、悲しいッス。たとえコーヒーが旨くても」
「君のことだから、実際にあったんだろ? そういう店」
にんまりと笑うマスターに、俺は照れ笑いで返した。その通りだ。あれは、コーヒーを味わうどころじゃなかったな。
そういえば、後、ラジオの『こども電話相談室』はやめて欲しいな。何? 冗談はよせ? いや、ホントにあったんだよ。たまたま入ったその店で、モーニングセットを喰ってたんだが……なんか気分が切なかったぜ。あれは……。
ちなみにこの店は、無難に有線を引いている。クラシックのチャンネルを主に流しているようだ。『ようだ』ってのは、俺が音楽にはあまり詳しくないからだ。良い曲があれば、何でも聞くからな。俺。でも、基本的に気分を落ち着かせに来てるわけだから、この選曲は有り難い。
「一時、ジュークボックスを置きたいと思ったんだ。お客さんの好みに合わせられるかな……と思ってね。それがもしここにあったら、友部君どう思う?」
と、そこへ、マスターの意外な台詞が聞こえた。うーん、ジュークボックスねぇ……。俺の頭の中に、ボウリング場なんかで、あまりにも使われないが故につまらなそうにしている機械達の姿が浮かんだ。
「正直、役に立たないと思いますよ。みんな遠慮して、使わないんじゃないかな?」
「やっぱり、国民性の違いかな?」
そう言ってからお互い、「国民性の違い」という言葉がなんだかおかしくて、小さく笑い合った。

「ねーちゃん、レイコーミツヌキな」
ふと、後ろの喧噪の中にそんなオッチャンの声を聞いた。レイコーミツヌキ。おそらく、喫茶店の中でしか通じない、ラテン語ならぬ『サテン語』の一つだ。ただし、すたれかけてるが故に……
「……はい?」
やっぱり、若いウエイトレスさんには解っていない。聞こえないと解釈したのか、オッチャンは再び
「レイコーミツヌキな」
と繰り返した。彼女は明らかにうろたえ、すがるような視線をこちら……カウンターへ向けてきた。マスターは慣れた物で、
「アイスコーヒーの、シロップ無し」
と、彼女にこっそり『日本語訳』を教えてあげる。それを聞いて、ようやく彼女は安堵の笑みを浮かべ、
「アイスコーヒーのシロップ無しですね」
と、復唱するのだった。……なんか、微笑ましいな。
それにしても、誰が言い出したんだろう? アイスコーヒーを表す『レイコー』にしろ、レモンティーの『レティー』ミルクティーの『ミティー』とか……。頭に思い浮かぶ幾つかの『サテン語』に、俺は、頬が緩むのを堪えていた。

「続き、まだありますけど、いいスか?」
マスターの視線がこちらに戻ってくるのを確認して、俺は訊いた。
「あ、ごめんごめん。お願いするよ」
……別に謝られるような、上等な話をしてるつもりはないんだけどな。ま、いいや。
「で、ですね。これ結構重要だと思うんスけど……店員の態度ですね」
「それはうちも気を遣ってるよ。元気が良さそうな娘を、面接で選んでる」
予想通りのマスターの答え。そうだろうな。ここのウエイトレスさんは、みんな愛想がいい。昔、これまたあったんだな。嫌な店が。味も良し、内装も良し、BGMも良し……だったのに、店員の態度はぶっきらぼうで、気分が悪かった。顔が美人だっただけに、あれには余計に腹が立ったぜ。
「愛想が良くて、可愛い娘だったら、言うこと無いッスけどね」
付け加えた俺の軽口に、
「ダメだぞ、友部君。ゆーきちゃん泣かせちゃ」
真顔で答えるマスター。ちなみに「ゆーき」ってのが、同居中……というか、傍目にゃ立派な同棲だな……の、俺の彼女の名前だ。週末に良くこの店に連れてくるから、マスターも知っているのだ。
「やだな、真に受けないで下さいよ。でも、可愛い娘をいつも見たいって思うのは、成年男子としては、正常だと思うんスけど……」
「ま、そう言うことにしておこうか。ふふっ……」
うーん、余計なこと言っちまったな……。

「ねーちゃん、新聞ないの?」
「申し訳ございません。他のお客様がお読みになっておられまして……」
再び、そんなやり取りが聞こえてきた。ちらりと新聞置き場へ目をやる。
なるほど、全部無い。いつもは、普通の新聞二種類に、ゴシップ新聞が二種類の四種類が一部ずつ置いてあるのだ。結構多い方だな。今は夕方だから、夕刊もあるはずなのだが、それもない。これだけ混んでりゃ、うなずけるな。
俺の理想は、主要な新聞が全種類、しかも二部ずつぐらいあって、奪い合うことなく、読み比べがじっくりできることだな。大学時代は、図書館で存分にできたんだが……考えてみりゃ、あれって恵まれてたよな。しかし、個人経営の店でやるとなると……
「新聞も、たくさん置くとなると、結構経費が掛かるからねぇ……」
視線の意味を看て取ったのか、俺の思考を引き継ぐように、難しそうなマスターの声がした。うーん、どの辺で折り合いを付けるか、だな。

「味、内装、広さ、BGM、店員、読み物……とまぁ、俺が思いつくのは、こんな所ッスかねぇ……」
すっかり燃え尽きてしまった煙草をもみ消し、新しい煙草に火を付けながら俺はシメた。下を向いて紫煙を吐き出し、しばし、自分の言った『理想の店』を思い描いてみる。
「友部君、そんなに理想があるんなら、将来、自分の店を持ったらどうだい? そのために、まずはここのバイトとして修行するんだ。バッチリ教えてあげるよ。……実は人手が足りなくてね」
頭上からマスターの声がした。笑いで冗談めかした台詞だったが、目は半ば本気だ。ぽんっ、と、俺の脳裏に『理想の店』のカウンターで、コーヒーをいれている自分の姿が浮かぶ。そういや、喫茶店やってみたい時期、あったよなぁ……。
「ははは……脱サラして、喫茶店のマスターか……悪くないッスね。定年間近になったら、考えてもいいかな……なんてね」
「ふふふっ……楽しみにしてるよ。今度は私が客だ」
「うるさいお客さんが来るな、こりゃ……あはは……」
笑いながら俺は再び『理想の店』を思い描いた。自分のいれた、とびきり旨いコーヒー、落ち着いて清潔な店内、心安らぐBGM、可愛くて人当たりの良いウエイトレス、豊富な新聞・雑誌類。絶え間なく訪れる客……。いや、ちょっと待てよ……でも……。俺の中に小さな、そして重要な疑念が浮かんだ。
自分に確認をするような気持ちで、俺はその思いを口に出した。
「でも……思うんスよ。もし、どっかにそんな理想の店があったとして……あるいは俺が作ったとして……通い続けますかね? 俺」
そう。何故か、『絶え間なく訪れる客』というイメージが俺には沸かなかったのだ。実際に経営したことがないからだという意見もあるだろうが、ちょっと違う。『客としての自分』が、その店に入った時のことを考えた。その時の俺は、理想的な店を見て、どう思うだろうか?
「どうして?」
意外そうな顔のマスター。俺は、何度も何度も『理想の店』の風景を頭で再生しながら考えた。
そうだ。最初のうちは良いだろう。何度も行くことになるかも知れない。
しかし、毎日通うほどにはなるだろうか? そう訊かれると、すぐに「うん」とは言えないような気がする。俺は、たどたどしく続けた。
「なんか……飽きるような気がするんですよ。最初は居心地が良いと思うんですけど、だんだん……つまんなくなってきそうで……」
「なるほど。指摘のしがいが無くなるってことか。ふふふっ……姑みたいだな」
「ははっ……姑か。凄い喩えもあったもんですね」
俺の頭に、幾分誇張された『典型的姑像』たるオバチャンの、ぶつくさと文句を言いながらコーヒーを飲む姿が浮かぶ。……なんかシュールだな。
そんな俺の想像を知ってか知らずか、マスターはこんな事を言った。
「私たち店を持つ側も、少しでもお客さんに喜んで貰おうといつも頑張っている。でも、完璧な店って、解らない物なんだ。自分の頭の中では完璧でも、他のお客さんからすれば、違う事だってあるしね。指摘はどんどんして欲しい。自己弁護みたいになるけど、つまり……」
急に照れて鼻っ柱をかくいつもの髭面に、俺は、
「欠点があっても、それを変えていこうと努力している姿勢を感じられる方が、好感が持てますよね」
にっこり笑って言った。ったく、ホントに真面目だぜ、この人……。ま、そこが好きなんだけどな。
「ありがとう。友部君」
「客ってのは、ワガママですからね。満足するって事、無いと思うんスよ。努力のしがいは、存分にあるんじゃないですか?」
「理想を追い続けるのが理想……ってことかい?」
「今俺が出した結論は、そうッス」
そうだよ。完璧な物、隙のない物よりも、悪いところもあって初めて、何にしても、ずっと好きになれるんだと思う。……程度ってものがあるけどな。

「友部君の作る店も、そうなると良いね」
「いや……俺、そこまでマメじゃないッスから……」
笑ってはぐらかしながら、ふと思い当たった。
『追うことが理想』と言うに至った、俺の『理想』を全て詰め込んだ、空想の店に足りない物が、だ。
それは、主たる自分の姿勢。ある一定の所まで来て、それにあぐらをかいてちゃいけないんだ。空想の中の店長たる俺は……はははっ、そこに満足して、ふんぞり返ってそうだな。そりゃ、客の入るところが想像できないわけだ。ま、定年間際の自分の、性格の変化に期待するか……なんてな。

殆ど想像できない数十年後の自分を漠然と思いながら、ふと、壁の時計を見遣った。……っと、結構な時間だな……。

「そろそろ、帰りますよ。あいつを待たせるのも、何ですしね」
冷たくなってしまったコーヒーを飲み干し、そそくさと上着を羽織る。立ち上がろうとするところに、声がした。
「すっきり、したかい?」
髭面の、柔らかな笑顔。変な意味抜きで、どきりとする。

……そうか。解った。

客に喜んで貰える店作りの努力、それを続けていくこと……それ以上に、『理想の店』に必要なもの。それは……。

訪れた人間を、心から暖かく迎える笑顔。ややこしいあれこれを、一時でも忘れさせてくれる笑顔。旨いコーヒーの香りと共に、その笑顔が味わえる店。それこそが、良い喫茶店なんだな……、きっと。でも、こればっかりは言わない方が良さそうだな。変なこと言って、余計な気遣いさせちゃまずい。
俺は、言葉の代わりに、精一杯の感謝の笑顔を浮かべて返した。
「……ええ。有り難うございました。ごちそうさまです。……あ、そうだ」
ふとそこで、俺は良いことを思いついて動きを止めた。
「どうしたの?」
ちょっと驚いた声をあげるマスター。いや別に、変な事じゃない。
「豆とペーパーフィルター、貰えますか? なんか、あいつにコーヒーいれてやりたくなっちゃいました」
そう、実は、自分でドリップコーヒーをいれるのが俺の趣味なのだ。大学時代はしょっちゅうやってたが、最近はご無沙汰しているんだ。マスターほどでないにしろ、腕にはちょっと自信もある。錆び付いてるかも知れないけどな。
「OK。炭焼百グラム、中挽きで良いね?」
昔から豆もここで買うから、通じるのも早い。その日飲んだメニューの物を百グラム……がパターンだったからだ。
「ええ。お願いします」
俺は、わくわくしながら電動ミルの音を聞いていた。いつもながらこの音は心躍るぜ。



 そうして俺は、挽きたてのコーヒー豆を土産に、家路を急いだ。
あいつ、ゆーきが、『おいしい』って、笑ってくれれば良いな……なんて事を思いながら。

おしまい

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