……秋の涼しい風が吹いておりました。
暑くもなく、寒くもなく、無造作に羽織った麻混のジャケットを優しく通って身体に香るような、そんな風の吹く平日の昼下がり。私は、バス停にたたずんで、ぼんやりバスを待っておりました。
そのころ私は失業中で、三日と空けずに職業安定所に通う日々でした。
……こう書くと、何やらとても真面目に聞こえますが、実際は自堕落な物でした。職安のある周辺は繁華街。仕事探しなんてほとんどせずに、切り崩した貯金で、ぶらぶら遊ぶ毎日。その日も、喫茶店にこもるかゲームセンターに行くかという、後ろ向きな逃避の手段を何気なく考えておりました。
「こんにちは」
ふと隣から、声がしました。
「えっ? あ、こんにちは……?」
私があいまいな答えを返したのは、一人の老婦人でした。ちんまりとした小柄さで、きれいにパーマの当てられた白髪は、もこもこふわりとして可愛らしく、身なりもとてもきちんとした……言ってはなんですが、今たたずんでいる片田舎のバス停にはとても似合わない、上品な、清楚さえある女性でした。
「いい風ですね」
「はっ? あ……ええ」
すぐ側にある田んぼの、実り始めた稲穂がそよぐ、“ざぁぁっ……さわさわぁ……”という音の中、私は、とても間抜けな答えをしてしまいました。彼女のまとう香水でしょうか、これまた上品な甘い香りが、稲穂の香ばしい香りに混じって、私の鼻をくすぐりました。
なんなんだ、この人は? 私はさらにとまどいました。でも彼女は、そんな私のうろたえには気づかず……いえ、あるいは楽しんでからさらりと流したのかも知れませんが……穏やかな笑みのままで言いました。
「学生さん?」
「あ……いえ、その……失業中でして……。これから、職安へ行くところなんです……」
答えは、どうしても歯切れが悪くなります。私は続けて、問われもしない前職のことや、退職理由なんかを、照れの勢いでもごもごとひとりごちました。そこへ、やっぱりにこにことした彼女の声がかぶさります。
「でも、合わない仕事はしょうがないですものね」
「はあ……」
今から思えばそれは、まるっきりの他人事であるがゆえの、無責任な激励でしかないのですが、彼女の、あの小春日和のような笑みで言われると、じゅうぶんな慰めになるのでした。
「そちらは?」
今度は、私から彼女に問うてみました。
「ええ、そこの美容室へ行ってましてねぇ……」
そう言って彼女が指さしたのは、道沿いにある小さな美容室でした。
そこは、私が物心ついたときからある、ぱっと見は小汚い、冴えない感じの店でした。
「あの……店ですか?」
私は同じ方向を指さしながら訊きました。
「ええ、ええ……そうですよ……」
それから彼女は、その店のことを話してくれました。
その話の中で、私は、彼女がここからバスと電車で一時間は掛かる高級住宅街に住んでいることや、某私大(ちなみに私が受験して失敗した)教授の家族から、店の話を聞いた……と知りました。
男の身ですから、その美容室へ行くことはないでしょう。
でも、長く続くにはそれなりの理由があるのだなあ、と、何気なく自分のあれこれに当てはめて、私はちょっぴり考えてしまいました。
そうこうしているうちに、バスが来ました。彼女とは軽い会釈の後、別々の席に座り、私は、程良い秋の日差しにまどろみを憶えていくのでした……
「お客さん」
「……っはい!?」
私が間抜けな答えを返したのは、バスの運転手さんでした。
「終点ですよ」
「あっ……すいません……」
どうやら、すっかり寝入ってしまったようでした。他の乗客は、みんなとうにいません。もちろん、あの老婦人も。
ばつの悪い思いで、そそくさと降りようとしたときです。
「あ……?」
忙しく通りすぎる視界の片隅に、なにか(バスの中という状況では)異質なものが映りました。
優先座席に、稲穂が一つ、落ちていたのです。
なぜ、と思うより先に、手が伸びていました。
稲穂は、その季節には少し早いはずなのに、ぷくぷくとつややかな黄金色に実っていました。
「なんでまた……?」
思い出したように呟いたその時、籾(もみ)粒みんなが“しゃらぁん……”と音を立てて鳴り、太陽の匂いと一緒に、もう一つの香りを運んできました。
それは、あの老婦人がつけていた香水に、とてもよく似ていました。
おわり