久方ぶりの雨は、思わぬ豪雨となった。季節特有の、生暖かく大粒で、そして都会の埃にまみれた雨粒が、際限なく路面に叩きつけられている。
「ちっ、もう少しお天道様も我慢してくれなかったのかね」
視界も定まらないその中を、一人の若い男が毒づきながら走っていた。
大柄でがっしりとした体躯は、並ならぬ過去を思わせる。
髪は美しい金髪だが、顔の造りの微妙な差異と力強く走る黒い眉が、純粋の西洋人ではないことを仄(ほの)めかしていた。
「こう言うときは、修行場から家までの距離が恨めしいな」
男はそうひとりごちつつ、もはや何の役にも立たなくなった、頭上にかざしていた荷物を下ろし市街の道場兼自宅まで全速力で走ることにした。
体躯から推し量ることが出来るように、男は武道を嗜む。
いや、その腕は“嗜んだ”物ではなく達人の域である。
男―リョウ=サカザキは、父が創始した流派『極限流空手』の師範代であり、この街、サウスタウンで『無敵の龍』の二つ名で呼ばれていた。
普段は、自宅から離れた山中で半ば自活しながら鍛練を重ね、時折帰宅し、師範代として門下生を指導する日々を送っている。
今はまさにその、たまの帰宅の途中だったのだ。
しばらく走り、市街に入っても、やはりこの雨である。人通りは全くない。
今通っている辺りは、こぎれいな飲食店が立ち並び、今の時間なら賑わいもあるのだが、さすがに今日はどこも静かだ。
そんなことには全く構わず、走り抜けようとしたときである。ふと、雨にけぶる景色に、人影が見えた気がした。
「……?」
普通なら、気にも留めずに通り過ぎるところだが、『何か』が呼んだ気がした。
足を止め、何気なくその店の看板を見る。
《BAR ILLUSION》
そして、その店先に一人の女性が膝を抱えてうずくまっている。
勿論、雨にうたれ、全身がずぶ濡れになっている。リョウは、この女性を良く知っていた。
「……ッ! キング……」
キング。それがこの女性の通り名である。本当の名は誰も知らない。何かあっても、徒(いたずら)に詮索はしない。それが、この街に住む者の半ば暗黙の了解だからだ。
二人は以前、ある事件をきっかけとして知り合った。以来、腐れ縁のような物が続いている。
「……」
この街で名が通る以上、彼女も武術―ムエタイの名手である。リョウも幾度か手合わせをし、その、見た目とは裏腹な、時に『毒撃ち(ベノム・ストライク)』と称される蹴り技の鋭さは、身に染みて知っている。
しかし今、リョウは不思議な気分にとらわれていた。
膝を抱え、何かに怯えるように小さくうずくまり、雨に打たれる目の前の女性を、奇妙にも『綺麗だ』と感じてしまっていたのだ。
いつもとは違う、過ぎるほどの弱さ。そして、この雨と共に消え入りそうな儚さ。
リョウはしばらくの間―実際は極短かったのだが―その『奇妙な』美に浸っていた。
視界を白く染める豪雨の中、ずぶ濡れでうずくまる女性と、姿を同じくして、それを見つめる男の姿は、その情景自体が一つの絵画的美しさを持っている様にも見えた。
「……おい、キング?」
我に返り、リョウは彼女に声を掛けてみる。が、反応はない。
「おい! しっかりしろ!」
固く閉じられた姿勢を崩し、顔を見る。いつもは美しく調髪して有る短い金髪も、雨でべったりと顔に張り付き、その表情は苦悶のそれであった。
「どうしたってんだ? うっ!」
ふと触れた手が、思わず引っ込む。酷い熱だった。
「まずいな、仕方がない!」
そう呟くと、リョウは彼女を背中に負ぶった。そして、自宅までの残りの距離を、出来る限りの速さで駆け抜けていった。
「こいつ、こんなに軽かったのか……?」
何か不安にも似た気持ちを抱きながら。
「おーい! ユリ!」
ようやく道場兼自宅にたどり着き、家中に響けと言わんばかりの声を上げる。
「あっ、お兄ちゃん。おかえ……きゃっ!」
ぱたぱたと、奥から利発そうな少女が出てくる。リョウの妹、ユリである。その、いつもの出迎えの笑顔が、一瞬凍り付く。
ユリもこの女性は知っていた。いや、大きな「恩」すら持っている。だから、余計その光景に驚いた。
「酷く熱を出している。着替えと、手当を頼む!」
言葉に詰まるユリには構わず、リョウはまくしたてた。
「わかった!」
何があったのか尋ねるよりもまず、動いた。兄の代わりにずぶ濡れの女性を背負い、足早にユリは浴室へ駆けていった。
・
・
・
「ん……うん……」
うっすらと目を開く。天井が見える。それに、額が冷たい。
「……?」
自分がどうなっているのかを確かめるため、頭を巡らせてみる。じゃらり……額から何かが落ちた。氷のうだ。どうやら自分は眠っていたようだ。
改めて、半身を起こし、自分の体を見てみる。
寝間着を着ている。しかし、随分大きい。まるで男物のようだ。
今度は周囲を見てみる。簡素な部屋。調度品や、内装からして、病院などではないようだ。
自分が寝ているベッドのそばに窓があった。そこから、外を見てみる。
外は相変わらず激しい雨だった。景色すら、定まらない。
「…………」
何故か、寂しい気持ちになる。
しばらく俯いていると、不意に、ドアをノックする音が聞こえた。
「(まだ起きられないんじゃない?)」
「(そうか?)」
ドア越しにそんな声がする。この声は……
(がちゃり)
「ん? よお。目が覚めたようだな」
「リョウ!! ユリ!!」
思わず素っ頓狂な声が上がる。
「すまんな。気を失ってたし、熱が酷かったもんだからな」
一瞬つられて驚いた顔をしたリョウだったが、すぐに真顔に戻って、少し気まずそうに言った。
「勝手なことだと思ったけど、手当、させて貰ったの。寝間着は、ちょうど良い大きさのがなかったから、お兄ちゃんのを……あっ大丈夫! 洗濯はしてあるから!」
慌てて説明するユリ。
「……」
「あっあっ、手当は、全部あたしがやったの。おにいちゃんは、大丈夫だから!」
沈黙している彼女の様子を見て、しどろもどろになりながら、さらに気まずそうに説明する。
「……いや、ありがとう……」
ようやく見えた笑顔に、ホッとするユリであった。
しかし、リョウにはその笑顔がいつもと違うように見えた。何か……?
「じゃあ、あたしは……」
ユリもその違いに気づいたのだろう。そう言い残して、気を利かせようとしたのか、慌ただしく部屋から出ていった。ぱたぱたという足音が遠ざかっていく。
「……っと」
傍らの椅子に座るリョウ。
特に話を切り出すわけでもなかったので、沈黙と、雨の音がしばらく部屋を支配した。
「……ありがとう」
俯いたまま、呟くように彼女が言う。
「ん? あぁ」
リョウは生返事で応える。
「…………」
「…………」
それきり、またしばらく沈黙が流れる。
「……聞かないの?」
変わらず俯いたまま、呟く。
「何を?」
わざとはぐらかして応える。
さらに暫くの雨音のみ。
「……ねぇ、リョウ」
初めて、リョウの方を見やって、彼女が問いかけた。
「ん?」
こちらも、目を合わせる。その顔は、知人に向ける顔と言うより、いつも妹の前で見せる兄の顔に近しかった。
その表情に、少し彼女の顔に安堵の色が浮かぶ。かすかに、息をのんで言う。
「空を見ていて……悲しくなった事って、ない?」
「空を?」
「そう。雲一つ無い、抜けるような青空」
「……」
「おかしな話だと思うでしょう? でも本当なの。何処までも、何処までも透き通った空を見ると、自分が凄くちっぽけに思えて……なんだか悲しくて、泣きたくなるの。今日も……それで……」
一気に言った後、再び口をつぐんで俯く。その顔は、蹴り技の魔術師として恐れられるファイターのものではなく、儚さすら漂う、ただの女性の顔であった。
「たとえば……」
少し、彼女の息が整うのを待ってから、リョウが続ける。
「弟のために闘っていたとき、ふと上を見上げて……か?」
不安げだった彼女の目が、驚きと、少しの喜びで大きく見開かれる。
目には、涙が溜まっていた。
この二人には大きな共通の経験がある。親と離れ、かけがえのない肉親―リョウは妹、彼女は弟―を養うために、そして守るために、死にものぐるいで強くなった。筆舌に尽くし難い、当人達でないと解らない経験である。
「……俺もな。ユリのためにストリートファイトをやっていた頃、そんな気持ちになったことがある。試合に勝って、ふと、空を見たんだ。雲一つ無い空が、やけに綺麗だった。見つめてるうち、まるで空に向かって落ちていくような感覚になった。その感覚の後、なんだか無性に悲しく、悔しくなった」
未だ雨の降り続く外を遠く見やって、リョウが呟く。
「それから、リョウはどうしたの?」
「思わず叫んじまったよ。『バカヤローーーッ!』ってね」
「くすっ……」
その、はにかむ様に、彼女の泣きそうな顔に少し笑みが浮かぶ。
「この雨の中、お前を見つけて、正直、ひどく小さく見えた。消え入りそうなくらいだった。なんて言うか、直感とでも言うのかな。何か有るな、と思ってな。俺が聞いてやれる話で、良かった」
柔らかな笑みを返すリョウ。
「……っ……く……」
その言葉を聞いて、彼女の目から涙が溢れだした。手で顔を覆っても、止めどなく溢れ出す。決して、他では見せられない。しかし、流したかった涙だった。
「うっ……ううっ……うぐぇっ……」
嬉しかった。このたとえ様のない、それでいて途方もない感情を解ってもらえる相手が居た。それが彼女には本当に嬉しかった。
「あ……ありがと……うぅ……うぐっ……えっ……うぇっ……」
リョウは何も言わず、ただ、彼女の涙の流れるに任せていた。
しばらく泣いていた彼女であったが、不意に、熱い物に抱きかかえられる感触があった。
「自分が小さく思えたら、空に向かって言ってやれ。『こん畜生! 俺は今生きてるんだぞ! 文句あるか!』ってな。胸を張れ。お前は、無敵のキング様だろ?」
リョウは、泣きじゃくる彼女を胸に抱きすくめ、ゆっくりと噛み含めるように言った。
「……まは……の……で……ないで……」
彼女が、腕の中で、何かを呟いた。
「ん?」
「……今は……その名前で……呼ばないで……お願い……」
泣きはらした目でリョウを見つめ、彼女は言った。
「わたしの名前は……」
・
・
「もう、すっかり大丈夫のようだな」
爽やかに晴れ上がった幾度目かの朝、リョウは彼女を見やる。
「あぁ。色々世話になったね」
いつもの服装に戻った彼女が応える。
「服の糊付けとか、上手くいってるかな?あんまりやったこと無いから……」
照れくさそうにユリが言う。
「ハハハ、上出来だよ。綺麗なもんさ。」
服の襟をちょっと立てて見せ、笑みを返す。
「今度店においでよ。とびきりのカクテル、ご馳走させてもらうよ」
「いいのか? Tシャツにジーンズでも?」
「ふっ、特別に勘弁してやるよ」
「そいつはありがたい」
「じゃ、また」
真顔に戻り、背を向け、歩き出す彼女。
「……またな。『キング』」
リョウがその背に投げかけた呼び名に、『キング』は少し振り返り、頭上の青空を少し見やった。そして、はにかみの笑顔を見せ、雑踏の中に消えていった。
おわり