隣人

その日も同じ一日だった。

中途半端な時間に起きての、朝食兼昼食。一通りの身繕いを終えて、着替え。それが終われば、特にやることがない。いや、やることは山積みのはずだが、どうにもやる気が起きないのだ。何気なく端末の電源を入れ、ネットワークを覗いてみる。メールは来ていない。早々に回線を切り、電源を落とす。駆動音が消え、耳を塞ぎたくなるほどの静寂が、再び部屋を満たす。

と、そこへ、ブカカカ……というカブのエンジン音が聞こえた。慌ててドアへ向かい、ポストを探る。……入っていたのは、新興宗教のチラシだった。そうだ、郵便物が来るには、まだ早過ぎるな……。ひとりごちながら、マサキは、忌々しげにその紙を握りつぶした。

端末とポスト。忙しなく交互を見ているうちに日が暮れる。今日も何もなく暮れていく。何とはない安堵感と、『何かが足りない』そんな、漠然とした苛立ちを胸に布団に潜り込む。そしてまた、同じ日が繰り返されるのだった。

ある日の晩。マサキは苦虫を噛みつぶした顔で、昼間本屋で買った週刊誌を読んでいた。読んでいる記事のせいではない。つまらないのはいつものことだ。理由は、隣の声だった。おなじみの痴話喧嘩。それは、いつもマサキが眠る時間を過ぎても続く。イライラしながら、耳栓を詰め、布団を頭までかぶって眠る。そんな日は、当然寝覚めが悪く、更に苛立ちがつのるのだった。

そしてまたある日。いつも通り何気なく過ぎゆく時間の中で、マサキは何かがいつもと違うことに気がついた。……そうだ。夜なのに、隣の痴話喧嘩が聞こえない。仲直りでもしたのだろうか? ……いや、別に関係ないな。隣がどうなろうと、自分には知った事ではない。そう思って、視線を壁から再び雑誌に落としたときだ。
不意に、玄関のベルが鳴った。不審に思いながらドアを開けた先には、貧相な顔の男がいた。何か言いたげに自分を見つめている。「どちら様で?」疑問を唇が刻む前に、眼前の男は、「いっ……いえっ!!」と、慌てて隣のドアへ逃げ込んでいった。……隣の住人だったのか。いったい何だったんだろう? 用事があるように思えたが……まぁいい。言わずに帰るぐらいなら、たいしたことではないのだろう。再び、部屋に戻り、座り直す。

……おかしい。さっきの男の事が妙に気になる。胸騒ぎというやつだろうか? どうにも落ち着かない。首をひねりながら、マサキの足はドアをくぐり、隣のドアの前に立っていた。
呼び鈴を押す。……反応がない。何度押しても同じだ。胸騒ぎは益々強くなる。ドアノブに手を掛け、回す。鍵は掛かっていなかった。「すいませーん」呟きながら、足を踏み入れた。

男は正面に居た。しかし、足が地面に着いておらず、宙に浮いていた。
「!!」
考えるよりも早く、男に飛びつき、体を吊っているビニールロープから解放する。床に横たえ、何度か胸を押す。やがて、むせながらも、呼吸が戻るのが解った。やれやれ……ため息を付きながら、念のため傍らの電話で救急車を呼び、マサキは男を病院へと運んだ。

それから数日後の夜。呼び鈴にドアを開けると、隣の男の顔があった。
「……すいませんでした……」
その弱々しい言葉を最後まで聞くより先に、マサキは言った。
「中で、話しませんか? ……なんだったら、酒でも呑みながら……」
言ってから、自分でもその台詞に驚いた。しかしマサキは、何かいつも自分の中にあった苛立ちのような物が和らいでいくのを、はっきりと感じていた。
なんだ、簡単なことだったんだ。漠然と足りないと思っていた事、欲しいと思っていた物。それは、隣に足を踏み出してみればいい。それでいいんだ。

自然に浮かんだ柔らかな笑顔で、マサキは隣人を部屋へ招き入れた。