常連の会話

 自由な時間のあるときはお金がなくて、定収入ができると暇のなくなるのが世の常。かくいう僕も、例外ではない。おかげで、楽しみの一つが減ってしまった。喫茶店通いだ。最寄り駅の大通りを一つ横にそれたところに、その店はある。だがしかし、別にその店が特に有名だというわけではない。チェーン展開している、ごく普通の喫茶店だ。ただ僕は、いろいろなコーヒーのメニューがある事と、店内の雰囲気がいいこと……などを理由に、学生時代、そこに三日と開けずに通っていた。
しかし、働き出すとそうはいかない。帰ってきた頃には店が閉まっていたり、早くても、疲れて果ててしまって、行く気がしなかったり。……とにかく、その日は本当に久しぶりにその店に入った。
その店内は、狭い部類に入る。混んでいるときは、客が入れなくてやむなく引き返す……なんて風景もよく見かける。でも、僕は逆に、騒がしくなりすぎず、良いと思っている。
「いらっしゃいませ」
いつもの、痩せ眼鏡のマスターが居る。
「……ども。」
軽く会釈で答える僕。
見ると、僕お気に入りの席が空いている。早速、すぐ隣の新聞置き場から、適当なゴシップ新聞を取り、腰掛ける。やがて、マスターが注文を取りにくる。僕は考えるふりをしながら、いつものコーヒーを頼む。実際、あれこれ考えて、ウインナコーヒーや、シナモン入りコーヒーを頼むこともある。けれど、今頼んだものが、一番のお気に入りだ。ただし、欠点が一つ。
マスターがいれると美味しいのだが、新しく入ったアルバイトの娘がいれると、ちょっと薄かったりして、味にムラがあることだ。
『こだわりがないわ!』
個人で喫茶店を経営している僕の叔母などは、そういって怒る。
でも僕は、雰囲気を味わってもいる、という気持ちと、彼女たちのさらなる精進を期待して、通い続けているのだ。

お気に入りのタバコに火をつけ、仕事中とは違うペースでゆっくり吸う。そこに、熱いコーヒーを一口。よく、母から煙草についてあれこれ言われるが、ささやかな楽しみ、これは譲れない。

新聞に落としていた視線を、周りに巡らせてみる。……この店には、僕以外にも常連客が多い。マスターと世間話をする人や、どこかへ旅行に行ったのだろうか、おみやげをウェイトレスさんに渡す人もいる。
僕はと言えば、まずしゃべらない。ゆっくり飲みたいと言うのもあるし、『気軽に話しかける』と言うのが苦手と言うのもある。話題を振られれば、きっと喋るだろうけど。

大体、煙草にして4本、時間にして30分ほどを過ごすのも、いつも通りだ。
「さて……」
コートを羽織り、伝票を持ってレジへ向かう。
「有り難うございまぁす」
店で一番元気で、愛想のいい(と、僕は思っている)ウェイトレスさんが、小走りでやってくる。
「500円になります」
僕が、千円札を取り出し、お釣りを貰おうとしたときだ。

「……お仕事は、忙しいんですか?」
突然、そんなことを訊かれた。
「……え?あ、あぁ……結構……ね。」
なんだか慌ててしまって、しどろもどろになる。
「……また、いらしてくださいね。」
にっこり笑って、彼女はそういった。
「……ええ。じゃ、ごちそうさまでした。」
僕も、にこりと返し、店を出た。

……時間にして、1分も無い。いつもの『ごちそうさま』というセリフに、二言三言加わっただけだ。けれど、僕にはそれが、他の常連客が交わすどんな世間話より、心地よく感じた。

ロングコートの襟を立てて歩きながら、僕は、体に満たしたコーヒーの香りと、去り際の一言が、暖かく体を巡っていくのを感じていた。