彼岸の彼方

後五分だ。

今なら、まだ間に合う。
気の迷いですべてを済ませて、この部屋を出てもいいはずだ。
「…………」
でも、私には動けなかった。『動きたい』という気持ちは、頭から手足に伝わるまでに行き先を忘れてしまう。そして結局、『のに』という否定の言葉になる。
この部屋を出たい。帰りたい。何の苦もなく、ここからは出られる。普通に、家に帰れる。『のに』、そうしたくない。後五分、待っていたい。もぞり……と動いたお尻が、腰掛ける豪華なベッドにきしみを生んだ。

ここは、ラブホテルの一室。
私はここで、待ち合わせをしている。
自分の、あさましい、きたならしい、でもどうしようもない欲望を満たす相手を待って、ここに座っている。
好奇心――いや、救いを求めるようにかけたテレクラ。静かな男の声だった。もちろん、お互いに面識はない。念のために、頭の中で声を照らし合わせてみる。私の回りにいる、いくらか下卑た知り合いの、誰とも違った。完全なる他人。だから、安心した。お互い、名前も含めていっさいの詮索をしないという約束で、会うことにした。
私はいったいどうしてしまったのだろう。なぜ、ここにいるのだろう?
数秒おきに、同じ疑問が数限りなく繰り返される。それでも、考えれば考えるほどに、身体が、どうしようもなく熱くなっていく。きっと、いまの私は、とてつもなくいやらしい顔をしているのだろう。ゆがんだ欲望を満たすために、見ず知らずの男に身をゆだねようとしている、愚かなメスの顔をしているのだろう。

……こんな姿を、彼には見られたくない。私は切にそう思った。
私には、心から愛する彼がいる。果てしなく優しく、包み込むように暖かい、大切な彼が。
彼には、何度となく抱かれた。そのたびに、私は幸福感でいっぱいになった。上手だというのもそうだけれど、普段の振る舞いそのままに、優しく私を抱いてくれる。身も心も、とろけるような快感。彼と共に、裸のまま、幸せな目覚めを何度迎えたことだろう。今、私が座っているベッドの上でだって……

時計を見る。後……二分。
彼は、サラリーマンとして忙しい日々を送っている。しばらく――三ヶ月ほど――地方へ出張だと彼は言った。彼は本当にすまなそうな顔をして、たっぷりと私を愛してから、去っていった。
とんでもない不義だ。私は……そんな彼のいない間をついて……!
誰か、私を叱って欲しい。悪い女だといさめて欲しい。子供のように、お尻を叩いて欲しい。この、みだらな尻を叩いて……! 思いっきり! はれ上がって形が変わるぐらいに! そして……そして……!!
「あっ……」
私は、唇をかんだ。なんていまいましい私の身体! お尻をめちゃくちゃに叩かれる事を想像して、濡れるなんて……!!
でも、それこそが私のゆがんだ欲望。容赦なく、お尻を叩いて欲しい。優しさなんていらない。物扱いされてもいいから、そうしてほしい。
「うっ……うぅっ……」
悔しさのあまり、涙がこぼれる。しずくのこぼれた先、時計の文字盤は……ちょうど、約束の時間になっていた。

その男は、本当に人間なのかと疑問にすら思えるほどだった。
電話口で話したときも、その声は、凍てついた湖の底にたまるヘドロのようだったけれど……。
肉付きは悪くないが、青白い顔。
サングラスに遮られ、全くうかがうことが出来ない眼光。
ポマードでべっとりとなでつけた髪はギラギラと光り、ゴキブリの羽を思わせた。
夏だというのに、黒いスーツの上からは同じく黒のサマーコートを羽織り、それでも汗一つかいていない。
なにより、まとう空気が冷たかった。触れる物すべてを凍てつかせるような、そんな雰囲気だった。
「…………」
「……はぃ……」
あごでうながされ、私は、男の膝に身体を乗せた。体温は感じられるが、やはり、いくぶん冷たいと思った。
『やっぱりいいです。ごめんなさい』
膝の上で言おうとしたその言葉は、結局新たな期待のわななきになってしまった。
「ひ……」
まるで包装紙をはぎ取るように、男は私のスカートを取り払った。そして、パンストごと、ショーツも。私の白い尻が、見ず知らずの男の眼下にさらされている。肉の奥、粘ついた欲望をたたえ始めているというのに……言葉も、ムードも、感情も、何もない。流れ作業で殺される、と殺場のブタ……そんなイメージが、まさに脳裏をよぎろうとした瞬間だった。

ぱぁーーんっ!

「あぐっ……!」
来た。緊張にとぎすまされた痛覚が、叩かれる衝撃を不必要なまでにくまなく舐め取る。痛い。とても。

すぱーーんっ!

思う間に、もう一撃。私の脳裏を、一つのイメージが何度もひらめく。
それは、海外の映画でよく見る、電気椅子での処刑シーン。

パァーーーンッ!

「いぎぃっ……!」
びく、びく、ばた、ばた……勝手に震える、私の身体。頭の中を、いくつもの電気椅子がよぎる。

べちぃーーっ! びたーーんっ!

「あ……あが……うっ……!」
お尻が熱い。エアコンが吐き出す冷気さえ、十一本目以降の指のようだった。はれ上がり始めているのが、自分ではっきりと分かる。
それでも、男は叩くのをやめない。
作業。まさに、その通りだった。

………………

「……!?」
定間隔で来ると思っていた私の意識が、不意に肩すかしを食らう。
それまでの間隔、かけるいくつかの間。
……まだ!? いつ……!?
もどかしい。すごく。早く叩いて! 私に、考える間を与えないで!
ぶるぶるとお尻が震える。奥は、じわじわと蜜があふれて、内ももに筋を引き始めているのが分かった。
『お願い……早くして……!』
口に出して言おうとしたところだった。

ずばんっ!!

「ご……っ!!!!」
肺中の空気を吐き出した。
痛覚よりも先に私にひらめいたのは……
怨嗟、侮蔑、殺意……男の手から伝わる、ありとあらゆる負の感情だった。

ばしっ!! ぎぎっ……!!

「はぎっ……!!」
叩いてから、わざと食い込ませている爪。文字通り身を裂かれる痛みに、私は限界までえび反る。

べしっ!! ずばっ!! びしっ!!

木か何かのように思われる、男の手。
引き裂かれていく、私のお尻。
悲鳴も何も、もうでてこない。
私は、かすかなうめきを上げて震えるだけの、肉袋と化していた。
「うあっ……」
突然、感覚が反転した。
どうやら、床に転がされたらしい。
続いて、扉の閉まる音。気配が、消えた。
終わった……ようだ。
「うっ……うぐっ……あぁあ……」
緊張の糸束が、ぷつりぷつりと千切れていく。同時に、機械仕掛けのように震え始める身体。歯の根、合わずに、息さえ、詰まり。
「うわあぁあぁあぁーーーーっ!!」
絶叫。悔恨。歓喜。自虐。声を振り絞り、よだれと涙と鼻水にまみれて床にのたうち回りながらも、私の手は……火照りきった性器に伸びていた。そして、いじめ抜くようにそこをこね回し、幾度となく達した……。

そして、一ヶ月ほどがたった。
ズタズタになった皮膚も、それだけあれば元通りになる。
私は……

スパーーンッ!! バシーーンッ!!

「いぎっ……! ぐ……が……っ!」
また、男の膝の上にいた。あの初めての時、床に、携帯電話の番号を記したメモが落ちていたのだ。
つくづく、どうしようもない女だと自分で思う。傷が癒えるまでの間、そのメモを眺めながらあの日のことを思いだし、どれほど自分を慰めたことか。そして、治りきると同時に電話を掛け……ここにいるのだ。
「うぶっ……ぐ……おえっ……!!」
どれほど待ちこがれてはいても、痛い物は痛い。胃液混じりのよだれを垂れ流し、恐怖に満たされ、涙腺よ枯れよとばかりに泣きわめき、一刻も早く逃げ出したいと思い……でも……『でも』、なのだ。
「はっ……はひっ……ひいっ……」
また、荷物のように転がされる私。存在そのものまで、男の冷たい手にうち砕かれてしまったような間。その時……何かが、私の身体に覆いかぶさった。直後に、ドアの閉まる音。
「……?」
それは、バスタオルだった。薄っぺらなはずなのに奇妙に暖かく、そのぬくもりは、私の奥深くに凍てつかせていたみじめさと罪悪感を、不必要なまでに溶かしだしてくれた。
「うっ……うああっ……あぁぁぁーーーっ……!!」
私はタオルを払いのけ、こぶしを叩き付けて泣いた。なぜかははっきり分からない。ただ、煮えたぎる欲望こそが冷たく凍てつき、私は胸をかきむしって、わめきながら、泣き続けた。

そしてまた、日が経った。
性懲りもなく、とは、私のことを言うのだろう。同じホテル、同じ部屋に、男と私は、いた。
同じ姿勢、同じ激痛、同じ背徳感、同じ……いや、また、違った。
「ひゃっ……!?」
数十回の責め苦が終わった後、私の、ごつごつに腫れたお尻に、何かが貼り付けられた。ひんやりと冷たい、シート状の物……湿布薬だった。
ごろり、と転がされる感触。反転する視界。ドアノブが回る音を、私は呼び止めた。
「待って!!」
「…………」
「どうして!?」
私からは、その一言しか出てこなかった。そうだ。どうして、私を気遣うような事をしてくれるのか。優しさを感じさせるのか。それでは……
「優しくされると、思い出す人がいる、って言いたいのかい?」
「……!?」
初めて聞く、直接の声。見た目より、ずいぶん若い。それより……!?
サングラスを外して、バスタオルで顔を拭う男。その下は……
「じわじわと冷徹さを薄めていって、どれだけ罪悪感に耐えられるか、試してみたんだけどね。以外とあっけなかったな……ふふふ……」
彼だった。私が愛してやまない、優しさの塊のような、彼の顔だった。
「あ……あ……あぁっ……」
「うろたえてるね。いい顔だ……」
「いぎっ……!!」
男……いや、彼は私を抱き上げ、回した手で思い切り腫れた肉をつかんだ。耳元に聞こえる、彼の声。
「今君を満たしているのは、恐怖? それとも歓喜かな?」
「あう……あ……あは……はは……」
私は、まっ白になった頭で、彼岸の彼方から笑い続けていた。一寸の力も入らなくなった股間からは、だらしなくオシッコがだだもれた。
「なんてはしたない女だ。きたならしく、みじめで、ぶざまで、いやらしくて、あさましくて……」
「あは……あはは……あへ……あははぁ……」
「でも、これで僕は君の全てを見た。全てを手に入れた。もう、逃がさないよ……」
「あへへ……うふ……んぐっ……!?」
ふさがれる唇。ゆっくり、押し倒されていく。

……その日の夜。私は、一人の男に犯されて、一人の男に愛された。
もう、逃げられない。
でも、それでいい。
彼は私の全てを見て、受け入れてくれた。
そして私も、彼の全てを見た。
どこかで望んでいた『もしも』が、
今、ここにある。

私も、彼も、逃げられない。
これで、いい。

お呪(まじな)い~コレクション・ハウスの夜3_5

5.イシの檻

 それから、何人もの『被告人』の『裁判』が『執行』された。
由佳も、何度か『執行人』になった。そのたびに、得も言われぬ『充実感』が彼女を支配した。『自分は、今、確実に人の役に立っている』

ここがどこだっていい。ずっと居たい。由佳は、心からそう願っていた。



 その高校での、生徒連続失踪事件は、もう何件目だろうか。登校途中、下校時、突然行方が解らなくなる。手がかりもない。家族や学校にも、思い当たる節が全くない。それが、この事件の共通点だった。
様々な憶測、推論、デマが飛び交ったが、事件はなおも拡大した。そのためか、奇妙であるにも関わらず、その事件は小さく扱われた。
ある雨の日、民家の庭で、女子高校生の死体が発見された。
奇妙な点は、それが『突然』現れたことだった。にもかかわらず、すでに腐乱しかけており、加えて運ばれた形跡もない。
しかし、事件は、死体があった場所の上が、その生徒の部屋だったことから、自殺と断定された。そして、死体遺棄の容疑で母親を事情聴取する、と記事は締めくくっていた。

だが、その死体が、腐乱しかかっているにも関わらず『笑っている』ように見えたことと、傍らに、本が落ちていたことは全く触れられていなかった。

立派な赤い装丁だっただろう……と、推察しかできない程に雨と泥にまみれ、朽ちかけたその本の傍らに、同じく赤い紙が落ちていた。

不思議なことに、雨にも形を崩さないその紙には、銀のインクでこう書かれていた。

『コレクション・ハウスへようこそ!』
-了

お呪(まじな)い~コレクション・ハウスの夜3_4

4.懲罰の部屋

「こちらです」
再び、黒い男が歩き出して程なく、大きな扉があった。闇に慣れた目に、古めかしい木の扉だと映った。
「さぁ、どうぞ」
“ぎぎぎぎぃぃ……”
見た目通りの重々しい音を立てながら、男がゆっくりと扉を開く。中は小さなホールのようになっていた。燭台が他より多くつけてあるが、煌々とした明るさではない。その光に照らされて、矩形に並ぶ十数個の椅子と、そこに座る男達が見える。

一見、ごく普通のスーツをきちんときた男達だ。ただ、目には皆、白い仮面―デスマスクを連想させるような―を着けていて、細かな顔立ちや表情までは解らない。
なにより奇妙だったのは、それだけの人数が居ながら、全くと言っていいほど男達に『気配』を感じないことだ。
もし、傍らの男に、『あれは人形です』と説明されたら、即納得しただろう。
しかし、そうは思えなかったのは、由佳が部屋に入った瞬間、人数分の『視線』を感じたからだった。

ただ、その多量の『視線』の質は、由佳が『慣れて』いる物とは少し、違っていた。
軽蔑でもない、哀れみでもない、好奇でもない……。でも、視線の密度に驚くだけで、そんなに悪くない。

なんだか照れるような気分を味わっていると、男が促した。
「あちらへどうぞ」
男の手が示す先、矩形の隅に、空いている椅子があった。質素ながらも、使い込まれた飴色が、ぼんやりとした光りによく映える。

「……」
促されるままにそこに腰を下ろす。
すぐ隣の席にも、仮面の男が座っている。軽く会釈をした由佳だったが、隣の男は微動だにしない。

「では、始めさせていただきます」

一際高らかな声が響きわたる。そして、天を衝くように掲げられた男の指が、

“パチン!!”

乾いた音を立てて鳴った。すると……

「ちょっとぉ! なにすンのよ! 離せ! 離せったらぁ!!」

男の後方から声がした。見ると、眼前の男と同じような出で立ちをした男が二人、少女の腕をつかんでこちらに歩いてくる。引きずられている少女は、あらん限りの力で抵抗しているように見える。が、両脇の男達は、特に力を込める風もなく、淡々としている。

由佳は、その少女に見覚えがあった。いや、よく知っている。『敬愛する者』の一人だ。
自然と、口元がつり上がる。ぞっとするほど、冷たい笑みが、まるで、何年も会えなかった親友に出会ったときのように。
ぶるぶると体が震える。なんだろう? 解らない。しかし、なんだか、たまらない。たまらない高揚感だ!

『……! ……!!!』
眼前の『彼女』は、何かをわめいている。聞くに、はしたない悪口雑言だ。
“くすっ……”
改めて『確認』する、その『子供っぽさ』に、つい、吹き出してしまう。

「では、これより被告人の裁判を始めます」
再び、黒い男が高らかに言う。
裁判? 一瞬、由佳も訝しんだが、次の瞬間には、なぜか恐ろしいほど納得していた。
『そうか、ここは懲罰の部屋なのよ。“おいた”の過ぎる子供たちを、何が悪いのか教えてあげて、叱ってあげる所なんだ。ただ、普通に言っても解らないから、わざと仰々しくしてるのね。……あぁ、それにしても私、彼女に最高の“恩返し”ができるわ!』

それまでの自分に対する『おいた』を思い浮かべながら、由佳は満面の笑みを浮かべていた。疑問はいっさい消えていた。

「被告人の罪状は以下の通り。
一つ。学友に対する言われ無き暴力。
一つ。学業に対する意欲の著しい欠如。
一つ。教師に対する敬意の欠如。
……以上の罪より、平手による尻たたき五十回、パドルによる尻たたき五十回、杖(ケイン)による尻たたき五十回を言い渡す」

いつの間にか、男の手には古めかしい紙が握られていた。ゆっくりと開き、よどみなく読み上げる『罪状』は、そのような内容だった。

「それでは、この刑の執行人を募ります。最初の価値は、100とさせていただきます」

『罪状』を読み終えた正面の男が、視線を正面に戻し、言った。
「……150」
「180」
「200……」

由佳の周りに座っている男達から、次々と声が挙がる。どうやら、罪状の『懲罰』を行う権利を競り合っているようだ。ただ、言っている数字が金額なのかどうか解らない。
暫く静観していた由佳であったが、そのうち、再び、眼前の『彼女』が自分に対して行った『おいた』が、グルグルと回り始めた。
「うふ……うふふ……」
笑みがますます濃くなる。知らずに握りしめていた拳が震える。剥がれかけた爪がきしんで痛い。

「300」
「310」
男達はどんどん数字を上げている。由佳の心は、恐ろしく静かに澄み渡っていた。

「500」
はっきりと、大きくはないが、通る声で由佳は言った。
対抗する声は、ない。
「500。ほかに、ございませんか?」
驚きをはらんだような沈黙が暫く流れる。

「それでは、決定とさせていただきます。どうぞ」
正面の黒い男は、まるで予想していたような声で、由佳を前へ促した。

ゆっくりと、前へ進む。改めて『敬愛すべき彼女』に目を遣ると、なにやら器具に拘束されていた。いわゆる三角木馬…とは少し違う。体を「く」の字に曲げると、足首と手首がくるあたりに、それぞれ鎖がついている。
『彼女』はじたばたともがいているが、全くの無駄であることは、誰の目にも明らかだ。

「叩く度に、数を数えなさい。いきますよ」
幼い頃の自分に対する、母親の態度を、知らぬ間になぞりながら、由佳はゆったりと言った。
その声に、拘束されている彼女が反応する。
「その声……由佳?! アンタ! なんのつもりよ!! 何の恨みがあるか知らないケド、後でどうなるか、解ってンでしょうね……ッ!?」

肩越しに由佳を睨めつけ、噛みつかんほどの形相で言い放った言葉の最後は、尻すぼみになった。由佳の平手が、彼女の尻を打つ。
ばふっ、という気の抜けた音が響く。
「いっ……なにすンのよ!! ……ひっ!!」
抗議する声に、再び一発。
「数えなさい。でないと、ずっと一回目ですよ?」
満面の、こぼれんばかりの、そして、不気味な程に優しい笑みをたたえて、由佳は言った。その顔に、拘束されている彼女も、色をなくす。

『ばすっ』
「……!! ぃち……」
「……もっと大きく、聞こえるように。ね? 1」
『ばふっ!!』
「いっ……いち……」
「よくできました。じゃあ、2」
『ばんっ!!』
「……にぃ!」



「25」
「にじゅうご……」
そこではたと手を止める。
由佳は気づいた。『彼女』が、すさまじいまでの『敵意』を発していることに。反省の気持ちではない。この『理不尽』な状況を脱した後、どうしてやろうか? と言う気持ちだ。
由佳は、ふぅ、と小さくため息をつき、肩をすくめた。そして、次の瞬間、おもむろにスカートに手をかけ、一気にずりおろした。
薄紅に染まった、丸い尻が顔を見せる。
由佳は、それを見てさらににっこりと微笑み、一杯に指を広げた手のひらをうち下ろす。
『ぱん!!』
奇妙に澄んだ音が尾を引いて響きわたる。
「なぁっ!? ……ひぃ!!」
驚く間もなく、呼吸が止まったような悲鳴が上がる。
「どうしたの? 26でしょ? もう一回、はい、26」
『ぱぁん!!』
「ぎっ……にじゅうろく……」


「はい、50」
「ごじゅう……」
重い声が返ってくる。由佳の眼下には、絵の具のついた手のひらで、画用紙を塗りつぶしたように、まだらに赤く染まった尻がある。
その『赤』の出来映えに不満があるように、由佳はまた、困った顔をしていた。『彼女』が、ずっとある『言葉』をつぶやいていたからだ。「由佳のクセに、由佳のクセに……」

数を数えている裏で、確かに聞こえた。
「まだそんなことを言うの……?」
再び、ふぅ、とため息をつく。
「じゃあ、次は……」
『罪状』では、「パドル」と言っていたが、何なのか解らずに、疑問の視線を両脇に立っている、黒い男に投げた。
「どうぞ……」
目が合うか早いか、片方の男が、なにやら木でできた板のような物を差し出す。
強いて言うならば、掬う部分が異様に長い、長方形のしゃもじ、と言った
ところだろうか? 厚みも、2センチほどある。
握りの部分を持つ。大きさの割に、ずっしりと重い。樫か何かだろうか。
だが、まるで由佳のために作られたかのように、手に馴染む。

そして、右手にしっかりパドルを握り、向き直る。
「由佳のクセに、由佳のクセに、由佳のクセに、由佳のクセ……にぃっ?!」
『ばしっ!!』
尻の肉が波打つ。衝撃が、腕を伝う。
「あら? 数が聞こえないわよ? さ、もう一回。1」

『ばしっ!!!』
「ほ……う……。いち……?!」
「はい。2」
『ばんっ!!!』
「……に……ぃ」



「49」
「いひっ……よ……ん……じゅう……」
「ほらまた聞こえない。49」
『ばんっ!!!』
「ごっ……よんじゅ……きゅう……」
「はぁい、50」
『ばんっ!!!』
「ご……じ……う……」『彼女』の尻は、既にでこぼこに変形している。まだらな赤だった表面は、そこから派生した、紫や青が混じっている。
「はぁ……はぁ……はぁ……あは……あはは……」
涎と涙が混じり、力のない笑いとともに、床に糸を引いて滴る。

「あはは……くふっ……うははは……っ!!」
由佳には、その笑い声も、言い訳にしか聞こえなかった。
「笑ってごまかしても、ダメですよ」
再び、男に渡して貰った『杖(ケイン)』を構えて言う。

ケイン。見た目は紳士用の杖のようだが、幾分細く、竹のような節がついている。端には、またよく馴染む握りがついていた。
『ぴゅうっ……ぴしっ!』
空を裂く音ともに、ケインが新たな朱一文字を描く。
「あはは……うははは……えは……!?」
笑いが一瞬止まり、息が止まるような声が上がる。
「さ、最後よ。数えなさい。1」
「うふ……うふふ……ひは……い……ち?」
「できるじゃない。じゃ、2」
『ぴしっ!』
腫れ上がった肉が裂け、一際鮮やかな一文字ができる。
「ぴっ! ……に……」
『ぴしっ!』
「……サン……」



「50」
『ぴしっ!』
「ゴジュウ」
機械のように、無機的になった声が聞こえる。
奇妙な笑い声は止み、不気味なほど淡々としている。だが、もう『生意気な』感情は感じない。やっと身にしみたようだ。『彼女』は、手足の拘束具を外されても、起きあがる様子すらない。すると、それまで 由佳に道具を渡す以外は微動だにしなかった、二人の黒い男が、再び脇を抱えてずるずると引っ張り、闇の中へ消えた。
それを『暖かな気持ちで』見届けてから、由佳は席に戻る。

「有り難うございました。では、次の被告人を……」

お呪(まじな)い~コレクション・ハウスの夜3_3

3.合わせ鏡の部屋

 出てすぐのはずの敷居がない。改めて、前を見る。
「えぇっ?!」
自分の部屋だ。だが、自分は、今、その部屋から出てきたのだ。
後ろを見る。そこも確かにドアだ。目の前には、またドアがある。
「……?!」
再び、そのドアに飛びつき、開ける。
…………同じだ。また、目の前にドアがある。
もしも、部屋一杯の幅の鏡を、仕切りのように中央に置けば、こんな感じになるのだろう。だが、由佳にそんなことを考える心の余裕はなかった。何度も、何度も、ドアをくぐる。そのたびに見る、同じ風景。
合わせ鏡……さっき行った『まじない』が頭をよぎる。
そんな……そんな、そんなそんな!!
体中から冷や汗が吹き出し、思考がどんどん真っ白になっていく。

……そうしてしばらく経った。どっち向きに、何回ドアをくぐっただろう? わからない。いや、もう数の感覚すらもなくなってきた。パニック状態は徐々に収まり、冷や汗も引いてきた。ドアを開ける手にも、あきらめが混じり出す。
『そうそろそろ、覚悟を決めた方が良いのかなぁ』
自分でも何の『覚悟』を決めるのか、はっきりしていなかったが、由佳は漠然と冷めた感覚で、そう思い始めた。

ふぅ……。大きなため息をつき、これで最後にしよう、と、何百枚めかのドアを開けた。

「うわっ……?!」
由佳は思わず目を覆ってのけぞった。今までの部屋とは違う。だが、眼前に広がるのはまぶしい光ではない。闇である。
“むぅっ……”
なま暖かい空気が漂ってくる。少し埃臭い……だが、決して不快ではない。この感覚は……たとえるなら古寺だろうか?
“とんとん……”
片足を部屋に残し、もう片方の足のつま先で『闇』に入ってみる。床がある感覚だ。少なくとも、踏み出す先が奈落の底……ということはなさそうだ。
『よし……』
意を決して、由佳は『闇』に踏み出した。

“きし、きし、きし……”
板張りだろうか、歩く度に音が鳴る。靴下越しに感じるその感覚は……。そう、使い込まれた木のそれだ。なめらかで、心地よい。
周囲によく目を凝らすと、広めの廊下のようになっている。人二人分ほどだろうか?
壁の手触りは……レンガだろう。床共々、なんだか懐かしさを憶えるような感触だ。そしてその両壁には、洋風の燭台が、ロウソクの明かりをともしている。
先に目を遣る。燭台が等間隔で並んでいるらしいことは解るが、どれぐらいの長さなのかなどは、全く解らない。
その『廊下』を歩き始めてしばらく経った。由佳は不思議に思った。ずいぶん長い。結構歩いているのに、全く先が見えない。ふと後ろを振り返ると、入ってきた入り口の光が、遙かに小さくなっている。
と、その時
“ばたん……”
と、その扉が閉まってしまった。
「あ……!」
しかし、再び出られたところで、元に戻れるわけでもない。もういいや、行くところまで行こう。そう決意し、なおも進もうとしたときだ。

『ようこそ……・』
背中の方から男の声がした。小さいながら、不思議と、よく通る声だ。
「……?!」
突然の声に驚いてその方を向き、さらに驚いた。その男の姿である。
頭を覆う、とがった大きな黒頭巾。目の部分には穴が空いているが、そこから表情は解らない。そして、首から足下まで、すっぽり覆う、同じく黒いマ
ント……。正直、かなり怖い格好である。
「あ……あの……」
由佳が二の句を継げないでいると、マントの男は、ゆったりした声で言った。
「怖がらないでください、由佳さん。お待ちしていました。ようこそ。コレクション・ハウスへ」
相変わらず表情はわからないが、優しそうな声だ。少し、安心できる。

「コレクション・ハウス……?」
聞いたことのない言葉だ。が、どこかひっかかる。
……そうだ。『ここ』へ来るきっかけになったあの本。そこに挟まれていた赤い紙に書いてあった言葉だ。
「そうです。コレクション・ハウス。罪深き者のための、懲罰の館です」
目の前の男は、由佳の記憶の反芻を知っていたかのように、だが、変わらずゆったり、淡々とした声で返した。

「懲罰…………」
あの本の内容が、フラッシュ・バックする。
「そうです。あなたがご自身でここへの道を作られたのです。由佳さん」
黒い男は、きっぱりと言った。

「そんな、私、誰にも懲罰なんて……」
与えたいと思ったことはない、と言おうとしたときだ。
「はたして、本当に、そうでしょうか?」
ゆっくり、噛み砕くような男の言葉が遮った。
その瞬間。
「…………!」
どくん、と、心臓が大きく脈打つ。そしてまた、聞こえてきた。『尊敬すべき』、『彼ら』の、嗤い声、『無邪気』な顔……・。
「ぐぅっ……」
まただ。また、あの感覚だ。たまらず、心臓を抱えて、その場にへたりこむ。
すると、すぐ耳元で声がした。
薄目でちろり、と見遣ると、黒い男がかがみ込んで自分をのぞき込んでいる。
「自分を騙すのは、もう止めましょう。ここは、その『敬意』をぶつける場なのです」
その言葉を聞いた瞬間、不思議なことに、由佳の心臓の痛みが、すうっと消えていった。
ゆらり、と再び立ち上がり、男と向き合う。
「でも、『懲罰』って……? 殺すの?」
上がりかけた息で、やっと紡いだ言葉が驚くほどに物騒で、慌てて口に手を遣る。
そんな由佳の様子が可笑しかったのか、男は少し笑ってから、それに答えた。
「フフッ……いいえ、そうではありません。由佳さん。貴女が、今のように節度ある女性に育ったのは、誰のおかげだと思いますか?」
「えっ? ……あ……母さん……かな?」
『節度ある女性』と言われて、少し照れながら、彼女は答えた。
「そうですね。では、思い出してください。貴女がまだ小さかった頃、貴女が悪戯をしたとき、母上は何をされましたか?」
「え……と……あ! そうだ! お尻を叩かれた!」
幼い頃の自分の姿と、やってしまった悪戯の数々、そして、母の顔とお尻の痛さを思い出し、由佳は、照れくさそうに答えた。今となっては、懐かしい想い出だ。
「お尻を叩かれている間、あなたはどんな気分でしたか?」
黒い男はなおも問うた。
「うーーん……。怖くて、みっともなくて、情けなくて……かな?」
「そうですね。だからこそ、同じ過ちは繰り返しません。……もっとも、違う過ちをしてしまう場合もありますが……。ともあれ、『節度』とは、そのように身に付く物です。決して、口先だけで解る物ではありません。……では、由佳さん。貴女が『敬愛する』、『彼ら』は、どう思いますか?」
講義をするように訥々と、よどみなく男は話し、ふと、話題を由佳に返した。
「えっ……」
ふたたび、『彼ら』の顔が脳裏をよぎる。言い様のない感情が、渦巻く。
「……きっと、『いい子』に育ちすぎたんだわ。周りが何も言わないから、『自分は何でもできる』っていう……幼児的万能感って言うのかしら?それを捨てきれないまま大きくなったのよ。体に教えて貰ったことなんて無いか、あっても理解できなかったのね」

由佳の言葉を聞いていた男は、胸の前で軽く手を叩き、言った。
「……見事な推察です。私たちも、そう思うのです。だからこそ、徹底して罰を与え直すのです。それこそが、この、コレクション・ハウスの目的なのです。……お解り、いただけましたか?」

「ええ」
由佳はにっこり―傍目には、ぬらり、という表現が似合う―と微笑んだ。

……もし、全く関係のない第三者がこのやり取りを聞いていたならば、ひどく偏狭な会話だと思うだろう。だが、由佳にとっては―そして、黒い男にとっても―至極まっとうな論理であり、『我が意を得たり』の感だったのだ。

「私たちの趣旨をご理解いただけたようですね。では、こちらへどうぞ……」
男は満足げにそういうと、ゆるりと背を向けてさらに奥へ歩き出した。
だが、由佳に残るわずかな『迷い』が、こうも問わせた。
歩きながら男の背中に投げかける。
「でも、この年……私と同じ、って意味だけど……で、お尻を叩くなんて、変な意味に取れないかしら?」
「性的サディズム、マゾヒズム……ですか?」
由佳の言葉が終わるか終わらないかのうちに、男が後を継ぐ。
心なしか、それまでの淡々とした口調とは、違うようだ。苛立ちとも、怒りとも思える空気が漂う。

「もし、神聖なる懲罰を、そのように受け取る輩がいた場合は……」
はたと歩みを止め、一瞬、由佳と向き合う。すさまじい気迫だ。
「永劫の闇の中へ。我々は、見捨てます」

“ぞんっ!”

「……!!」
氷の刃のようなその言葉が、由佳の胸に突き刺さる。その衝撃に、一瞬後ずさる。
……が、やがてその氷は、徐々に溶け、由佳の体の隅々を巡りはじめた。

ぞくぞくする。
恐怖?
いや。
喜び?
違う。
解らない。
が、今までにない『素敵』な感覚が、彼女を満たした。そして、

「そうよね。そうするべきよね」
にっこりと―やはり傍目にはぬらりと―微笑む由佳が居た。

お呪(まじな)い~コレクション・ハウスの夜3_2

2.まじないの部屋

 そんなある日のことである。由佳は、いつも通り机に向かっていた。ただ、そこから聞こえてくるのは、ペンを走らせる音とは似て非なる音だった。

“カリカリ……ピチッ……プチッ……”

最初のうちは普通に勉強していたのだが、そのうち、指先の塞がりかけた皮が気になりはじめ、ペンの先でほじり出しているのだ。血が滲めばすすり、はがした皮をカリカリと噛む。没頭していれば、一、二時間はすぐに経つ。足下は、例によって、せわしなく揺れている。

そのときである。
『ドンッ!!』
「きゃっ!?」
突現の激しい縦揺れが家全体を襲った。体中の血液が心臓一点に集まるような感覚が彼女を包む。
『次もくるかな?!』
椅子から立ち上がり、暫く身構えていた由佳であったが、結局、それは杞憂に終わった。
『あぁ、びっくりした……』
再び椅子に座り直した時である。

『ゴツッ!!』

「いぃっ……!?」
椅子のすぐ後ろにある大きな本棚から、本が降ってきた。ご丁寧に角から落ちてきたそれは、彼女の頭に命中した。
「んーー……っ!んーー……っ!!」
瞼の裏に、忌々しい程美しい星空を潤んだ目で見ながら、歯を食いしばる。
「ふぅ……ふぅ……痛い……なぁ……もぉ……」
やっと出てきたその感覚を表す言葉を呟きながら、由佳はその『犯人』を見た。
重ねてご丁寧なことに、立派な装丁の本だ。しかも大きい。A5サイズの教科書より、横2倍ほど大きいだろうか……そう、A4サイズだ。こんな本が角からぶつかれば……と、ぶつかった所に手を遣る。やっぱり、コブができている。
「あぁもう! 腹の立つ!」
どこかに文句を言いたくても、自然現象が相手ではどうしようもない。
仕方がないので、捨てぜりふを宙に投げておく。

由佳がなおもぶつぶつ言いながら、本を元の場所に戻そうとしたときである。
一つにして、最大の疑問が浮かんだ。
「あたし、こんな本持ってたっけ?」
改めて、その本をまじまじと見る。えんじ色の立派な装丁で、辞典か、全集のようなサイズだ。ぺらぺらとめくってみると、カビ臭さとともに、米粒のような字がびっしりと書いてある。死んだ祖父の蔵書だろうか? いや、あれは物置の奥にしまってある。確かに親には読め読めと言われたが、出した覚えはない。
かといって、親がわざわざ出してきたとも思えない……。
少しカビで粘つく本をためつすがめつ、由佳は暫く考え込んでしまった。
と、そのとき、本の間に何かが挟まってることに気がついた。本の色とは違う、鮮やかな赤が目を引く。
「なんだろう……?」
そのページを開き、挟んである紙を見る。本より一回りほど小さい。B5サイズだろうか。装丁よりも一際鮮やかな赤いの紙には、銀のインクでこう書かれていた。

『コレクション・ハウスへようこそ!』
「……?」
ますます由佳は首をひねらざるを得なくなった。書いてある文言も変だが、なお不思議なのはその紙だ。しわ一つないそれは、どう見ても新しい。
本が古いし、まして自分が本棚に入れた覚えのない物に、どうしてこんな新しい物が挟まっているのか?いたずらにしては、手が込んでいるわりに、意味がわからなすぎる。「でもまぁ、誰かがここに挟んだんだから、しおり代わりかもしれないな」
考えても仕方ない。そう思ってひとりごちつつ、再び本をなおそうとした。
「でも、しおりを挟むぐらいの所って、どんなことが書いてあるんだろう?」
ふと、その内容が気になりだした。いったん気にし出すと、どうしても確かめたくなる。由佳は、机に座り直し、赤い紙の挟んである所を開いた。

そこには、やはり米粒のような字で、このように書かれていた……。

『……汝、罰を与えたき者在れば、かようにして、“道”を成せ。閉ざされし儀式の間にて、二つの写し身を対となし、間に立て。しかる後、あらん限りの怨嗟を以て、右の拳で天を衝くべし。』

「……なにこれ?! ひょっとして、呪いの本?!」
珍しさと可笑しさで、由佳は危うく吹き出しそうになった。なぜなら、かわいらしい雑誌の占い程度ならまだしも、こんな仰々しい『呪い』の類なんて、とうてい信じていないからだ。本屋に行っても、そんなコーナーを見つける度に馬鹿馬鹿しくていつも呆れている。
「あーあ、ちょっと期待したのになぁ」
拍子抜けして、また、由佳は再び机に戻った。

「………………・」
おかしい。集中できない。
『ぞくっ!!』
背筋を悪寒が走る。
「あれ……? カゼかな……?」
突然の悪寒に、そうつぶやいた瞬間。

「……ひっ!? ……グ……グあ……うぅ……!!」
心臓が、すさまじい軋みを立て始めた。まるで、細いピアノ線で、がんじがらめにされているようだ。
「うぅっっ! ギウっ! あああううっ!!!!」
たまらず椅子から転げ落ち、床をのたうつ。心臓に絡まる鋼線が、今にも獲物をバラバラにしそうだ。
左胸を、鷲掴みにする。乳房に、爪が食い込む。だが、心臓の痛みは紛れない。
“どくん、どくん……”
皮を剥ぎ尽くし、感覚を忘れたはずの指先が疼き始めた。まるで、十本の指先それぞれに、小さな心臓がついているようだ。そして、本物の心臓同様、ぎりぎりと痛い。
「ぎオ……ガ……んんんん……は……が……ゴ……」
やがて、にじみ出る脂汗とともに、声が聞こえてきた。

「……!!」
それは、嗤い声。自分が『尊敬』すべき、『彼ら』の声。いや、嗤い声だけではない。自分に『悪戯』をするときの『無邪気』な声、顔……・

全てが、火花のように現れ、消える。何度も、何度も……・。

「うぅうぅうぅうぅぅぅぅぅぅーーーっ!!」
頭に血が上っていく。バリバリと唸る音は、歯ぎしりだ。

これは、怒り? 『彼ら』への? そんな。だって、私は『彼ら』を『尊敬』しているもの。そんな感情、持ってない。痛い。違う。苦しい。だって。抑える。どうして。何を。誰に。恨む。まさか。讃える。違うよ。痛い。何が。怒る。誰が。わたしが。まさか。本当に。誰を。憎む。いけない。何故。尊敬。嘘だ。どうして。痛い。わからない。何故。わからない…………………………………………………………………………

そして由佳はのろのろと立ち上がった。部屋を閉め切り、卓上用の鏡を用意し、化粧台の椅子に乗せる。やがて、合わせ鏡が一本の無限の道を作り出す。その間に立つ。自分もまた、無限の存在となる。

「怒る。誰が。わたしが。まさか。本当に。誰を。憎む。いけない。何故。尊敬。嘘だ。どうして。痛い。わからない。何故。わからない……」
なおも呟きながら、ゆっくり、右の拳を握る。

『ぶんっ!!』
右腕よちぎれ飛べとばかりに、空へ突き出す。

…………

なにも、起きない。
「…………はぁっ……」
脱力してその場にへたり混む。そうだ。何を自分は馬鹿なことをしているのだ。あんなもの、どこかの妄想家が書いた大嘘ではないか。
「あはは……バカだなぁ、私。……下でコーヒーでも飲んでこよっと」
気分転換をしに下に降りようと、由佳は扉を開けて階段を踏み出そうとしたときだ。
「あれ……?」
由佳は、自分の目を疑った。

お呪(まじな)い~コレクション・ハウスの夜3_1

1.イシの部屋

 教科書の落書き。無くなる小物。椅子の上の画鋲。飛んでくる輪ゴム。繰り返される悪口。根も葉もない噂。デジタルで流れる個人情報、淫らな嘘。意味のない電話。嗤い声。扉に挟まれた黒板消し、バケツ。身勝手な因縁。
……『いつものこと』だった。眉一つ動かさない。こんな風に、嫌がる素振りを見せなくなったのはいつからだろう? ……その疑問さえ、既に過去の物のようだ。
由佳は、いつも無表情だった。放って置けばいい。下手に反応すると、それで相手はつけあがるのだから。放って置けばいい……。だが、その、ささやかで、大量のいたぶりは、止まなかった。周りは、知っているのだ。その態度が、強がりである事を。

せわしなく噛む爪。爪の周りの肉は、10本全て赤く腫れ上がり、血が滲んでいる。それでも由佳は、その傷がふさがるたびに、前歯でかじり取る。
シャープペン等で皮をほじり出す。またバイ菌が入り、化膿し、腫れる。指先は、既に感覚が無くなっている。肉は根本までめくれて、爪がぐらついている。今にも落ちそうだ。そのかろうじて指の肉に張り付いている爪は、異様に波打ち、歪んでいる。それがなければ、その下に続く手は、しなやかで美しい、という形容ができるだろう。

知らずに何本も抜いている前髪。前髪は、一部が薄くなっている。退屈だと思うとき、つい、手が伸びる。後ろできちんと束ねた髪の、おでこのあたりではねた部分。始めは指でもてあそび、やがて一本、二本……毛根の透明な脂、あるいは血とともに、ぷちり、ぷちりと抜けていく。気がつけば、数十本が机に散乱している。その、抜いていく感覚が、痛がゆい様でおもしろく、つい、繰り返す。何故かだんだん可笑しくなってきて、クスクスと笑いながら。

カタカタと揺する足。短くすることなど考えたこともないスカートから伸びる足。前時代的、と言う言葉すら当てはまるような、白にささやかなワンポイントのソックスに包まれている。一時流行ったルーズソックスも、穿いたことがない。見た目の印象が悪いし、第一、『ルーズ=だらしない』という名前自体が気に入らない。
静かにしていれば、今時希有なその足も、何かにせかされるような足の揺れ―有り体に言えば、貧乏ゆすり―が、台無しにしている。

別段、由佳は学校側にとって都合のいい『模範生』になろう等とは考えていないし、先生に媚を売っているわけでもない。校則が理不尽なのは百も承知。厳密に見れば、由佳も校則違反―たとえば、寄り道や、学校への私物持ち込み等―を何度もしている。服装にしても、洒落っ気に全く無頓着というわけでは決してない。ただ、自分の求める美的感覚と、現在の流行がかけ離れている。それだけのことだった。しかし何より、どんな決まり事でも、そしてたとえ完璧でなくとも、その共同体にいる限り『ルールに従うこと、節度を保つこと』が必要であり、ここはその訓練だと割り切っているからだ。

肩で風を切り、異様に大きな歩幅で颯爽と―周りには、逃げ回っているようにしか見えない―歩きながら、そう心につぶやく。

始めのうちこそ、どうして自分だけが、と思った。しかし、誰に相談したところで周囲は変わらない。そして、ある一点を超えたとき、由佳は―見かけ上―冷静になった。そして、逆に周りを観察するようになった。
『どうして彼ら、彼女らはこんなことをするのだろう?』
自分の理解とはかけ離れた行動をとる周囲に対して、彼女の偏りかけた思考が答えを出すのには、暫くかかった。

『彼らは偉い。』

これが、彼女の出した答えだった。
彼ら、彼女らは全くの子供であり、満足に通常のコミュニケーションもとれないのだ。注意をされても言語を解さず、善悪の区別も付かない。この年齢になって、そんな精神レベルの人間が、仮にも義務教育を離れた選択制の教育課程である『高等』学校に、こんなにも多くいるなんて。これは凄いことだ。尊敬に値する!

人間の、理解できない物に対する逃避の方法にはいくつかある。
一つは、無条件に礼賛すること。
一つは、忌み嫌い、徹底して遠ざけること。
一つは、強引な理由を付けてでも、無理矢理受け入れることである。
……彼女がとったのは、三つ目だった。

しかし、たとえ彼女が『理解』したとは言え、普段の仕草は変わらない。
それに対し、周囲は『よい反応あり』と受け取り、手を緩めなかった。そしてそれは、彼女が帰宅して眠りにつくまで続くのだった。

由佳にとって、教室は『イシの部屋』だった。いつ終わるとも知れない、緩やかで冷たい拷問が続く『石の部屋』。そして、冷たい石のように固い心を持たなければいけない『意志の部屋』。

お呪(まじな)い~コレクション・ハウスの夜3_0

0.或る本の一節

 『敬意という物は不思議な物だ。範とすべき者等へは勿論だが、例えば、“今この瞬間、こいつがこの世から消滅してくれれば、どんなに素晴らしいことか!”といった呪詛の言葉が、唱え続けている内に、それが、ある種の非常に逆説的な敬意―こんな奴がこの世の中に存在している。そいつは私の理解できないところにいる。なんと忌々しくも、凄いことだろうか! といった、いささか狭量な感情―に変わっていたことなどだ。その、“負の敬意”とも言うべき物は、非常な苦痛でありながらまた、得も言えぬ快楽にもなる。』

神隠し~コレクション・ハウスの夜2

「いらっしゃいませ」
ちょっと洒落た商店街にある、高級ランジェリーショップ。
そこに、どう見ても分不相応な学生風の娘が入ってきた。
それに気づいた店員の挨拶も、高をくくって言葉尻がいい加減になる。その娘は、店内に並ぶ色とりどりの商品に目を奪われ、呆けたようにキョロキョロしていた。大方興味本位でウィンドーショッピングにでも来たんだろう……店員はその客に掛けようとした声を呑み込み、知らんぷりを決め込むことにした。

しかし、その娘-清香(さやか)の落ちつきのない目線は、店員が考えていたような羨望のそれではなかった。彼女は『どれを貰おうかな』という“物色”をしていたのだ。

初めて都会に出てきたお上りさんのような目線を装いつつ、ちらちらとレジをうかがう。店員はそっぽを向いたままだ。天井に目を遣る。防犯カメラは……死角はこの辺かな。視線を陳列棚に写す。シルクのショーツが目に入る。
……よし。

しゅっ!

すばやく手を動かし、ショーツを一つ、ポケットにねじ込む。そしてもう一度、レジの方を見る。気づいている様子は、ない。
しかし、品物を『もらって』からすぐに店を出たのでは、かえって怪しまれる。
そこで、相変わらず物欲しそうな顔をしたまま、もうしばらく店内をうろうろする。そして、心底残念そうな顔をして、溜息の一つでもつきながら、店を出るのだ。店を出てしばらくも、大げさに肩を落として、とぼとぼ歩く……ふりをする。

店が視界から消えた頃、清香は演技を止め、心底楽しそうに歩き出す。

「(また成功した。ちょろいもんね……)」
そう。清香が万引きをするのはこれが初めてではない。
最初は、魔が差した程度だった。本当にウインドーショッピングをしているときに、『こんなショーツをはいてみたいなぁ』と思った。そして、『もし、今私がこれをポケットにねじ込んだら、どうなるだろう?』という、『囁き』が聞こえてきた。
やってみようかな……止めようかな……迷ったあげく、実行に移した。
店員は気づくそぶりもなく、店を出ても追いかけてこなかった。
そして清香は、味を占めた。
「んふっ……これをはいてアレができるのね……楽しみだなぁ……」
盗んだショーツをうっとりとした目で見つめ、清香はわくわくした気分で、近くの公園へと向かった。

清香の家と、先ほどの店との丁度中間程に位置する公園。
清香は足早に、そして一直線に公衆トイレに入った。
「さぁて……と……」
おもむろに、今はいているショーツを脱ぐ。薄黄色に汚れているのが解る。

すぅっ……

臭いを嗅いでみる。アンモニアの臭いが鼻を突く。しかし、自分にとってはとてもいい匂いだ。
しばらく、うっとりと匂いを嗅いでいた清香は、さっき盗んだショーツをポケットから取り出し、手早くはきかえた。シルクのすべすべとした感触が、とても心地良い。まともに買おうとすると、随分の出費のはずだ。それが、何の労力もなく、さらには適度なスリルまで味わえて、手に入れられるのだ。嬉しくないはずはない。

思い出し笑いを浮かべながら、清香は足どりも軽く、公園を出た。

公園から家までの道のり、昼間と言うこともあり、人影はまばらだ。
昼間? そう、昼間である。清香は今日の万引きのために、仮病を使って学校を早退したのだ。学校が終わる夕方に店に行くと、他の客が多くてやりにくいからだ。

清香はきょろきょろと辺りを見渡し、人影がないことを確認した。
そして、ちろりと舌を出し、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。そして…………

みちっ……ぶひっ……ぶっ……ぶちゅぶちゅぶっ……ぶほびっ……しゅぅぅぅ……

立ったまま、ショーツの中に、糞尿をした。
足下には尿の水たまりができ、ショーツの中に収まりきらない軟便が、内腿を伝う。尻の部分は、あたかもうさぎの尻尾のようにこんもりと盛り上がり、強烈な臭いが立ちこめる。
……清香は、まさに至福、と言った顔で立ち尽くしていた。びくん、びくん、と体が名残惜しそうにケイレンし、排泄の快感とは別に、身体の芯が熱くなってくるのが解る。

……これが清香の何よりの楽しみであった。万引きしたショーツで、それをはいてその中に糞尿をする。それも、盗んですぐ、外で……だ。自分で金を払って買った物なら、こんな使い方は出来ない。自分の腹が痛まないからこそ出来ることであって、また、だからこそ余計に快感なのだ。

「はぁっ……」
立ちこめる強烈な臭いも、清香にとってはこのうえない媚薬だ。
うっとりと焦点の定まらない目で、ゆっくりと歩き始める。

にちゃ……ぬちっ……ぐちゃっ……

尻に溜まった糞がゆさゆさと揺れ、擦れ合う内腿が糞をこね回す。
しかし、そのぬるりとした感触も、音も、全てが清香にはたまらなく心地良いものであった。
清香は歩きながら、これからのことに思いを巡らせていた。
「(帰ったらどうしよう? うんちを体に塗って遊ぶ? アソコに擦りこんでオナニーする? あぁ……楽しみだわ……)」

そうこうしているうちに家に着いた。普通、こんな格好で家に帰ってきたら怪しまれるのが普通だが、清香の家はそう言うことに関しては驚くほどにオープンだった。清香には妹がいるのだが、その妹も、小便を漏らしながらのオナニーが大好きだ。母親もそれをとがめることはなく、むしろその後かたづけに小言を言う程なのだ。どうしてそうなったか、等は考える必要もない。ただ、自分の好きなように、気持ちのいいことが出来るのだから。

「ただぁいまぁ」
もどかしそうに家の扉を開け、さあ自分の部屋に行こう……としたときである。
清香は、家の様子が違うことに気づいた。トビラと玄関はそのままだ。
しかし、その先が真っ暗なのだ。
「……あれ? うち、こんなに暗かったっけ……?」
靴を脱ぎ、家に上がる。一歩進んで見てみても、自分の先は真っ暗だ。
「おかあさん……どこ? 居るんでしょ?」
糞の尻尾をゆさゆさ揺らし、清香は先に進んだ。しかし、相変わらず周囲は
暗い。それに、玄関から真っ直ぐ行けば台所のはずだが、まだたどり着かない。
おかしいなぁ……と思いながらも、深くは考えず、歩を進めた。
……やがて、目の前に扉が見えた。しかし、その扉はいつも見慣れた台所の物ではなく、随分古めかしく見えるものだった。
「……? おかあさん? いるの?」
ノブに手を掛け、扉を開ける。

ぎぎぎぃ…………

重々しい音を立てて、扉が開く。
……中は、ちょうど小さな教室ほどの広さの部屋だった。レンガらしき壁にはロウソクが灯してあり、淡い光を放っている。床はフローリング……と言うよりは、板張りだ。体の重心を動かす度に、ギシギシと音を立てる。

「ちょ……ちょっと! どういうこと? ここ……どこ?!」
ようやく事態の異常さに気づいたように、清香は慌てふためいた声を上げる。
……確かに自分は、自分の家に帰ってきた。でも、中は真っ暗で、台所がやけに広くなってて……ううん、台所のある場所に広い部屋が出来てて……でも、こんな住宅街に、こんな奥行きが取れる? 変だ。絶対変だ。ちょっと待って、本当に私の入ってきたのは、自分の家? そうだ、もう一度確かめてみよう!

そう思い、今入ってきたドアを出て、清香は玄関に向けて走り出した。
ゆさゆさと揺れる“尻尾”が、このときばかりはもどかしく思えた。
……しかし、どんなに行っても、入ってきたはずの玄関は見えない。真っ暗な空間を走りながら、清香は徐々にいらだちを覚えはじめた。いつまでたっても『おたのしみ』が出来ないからだ。

「仕方ないなぁ……戻ろっか。そこでやってもいいや……後かたづけさえすればいいんだから……」
清香は、ふぅ、とため息をつき、きびすを返して再び歩き始めた。……すると、今度はやけに速く元の扉にたどり着いた。

ばたん、と扉を閉め、適当なところに荷物を放り出す。そして、制服を脱ぎ、下着姿になる。
「うふふぅ……・」
板張りの床に、ぺたり、と座り込む。

にちゅ……ぐちゃ……

尻の“尻尾”がつぶれ、糞が尻の割れ目や性器に押し広がる。今日は時間が経ってしまったため、糞は随分冷たくなってしまっていたが、それはそれでまた、感触が変わって楽しい。
「はぁっ……」
すっ、とショーツの中に手を伸ばす。指先に当たる、柔らかい糞の感触。そして、手のひらに感じる、熱く火照った性器……。
左手で、性器から溢れる粘液をすくい、右手は、ショーツの後ろから手を入れて、糞を一つかみ取り出す。

しゅり……しゅり……にちゃ……くちゃ…………

清香は目の前で両手を擦り会わせ、粘土でもこねるように、二つを良く混ぜる。茶色になった手の、指先を少し嘗めてみる。
「……にがぁぃ……くすっ……」
嬉しそうに少ししゃぶった後、おもむろに手のひらの糞を身体に塗りはじめた。

べちゃっ……しゅっ……しゅっ……しゅっ……

身体が、茶色に染まっていく。そして、今までより激しい臭いが、清香の鼻を刺激する。いや、清香には、何にも代え難い、芳しい香りだった。
「はぁぁっ……」
全員に塗り終わり、ごろりと仰向けになる。
天井は、見えない。しかし、今の清香にはそんなことはどうでも良かった。全身から立ち上る、何とも言えない良い匂い。そして……再び手を性器に伸ばす。

ぐちゃり……

粘液が、溢れるほどに出ている。糞まみれの指を挿入し、愛撫を始める。
片方の手は、同じく糞まみれの胸を、ブラジャーの上からもみしだく。
「あ……あぁあっ! んっ! はぁぁっ!! ぃ……いぃいっ! ンッ! ンッ! んおぉ……っ!」
ばたばたと床にのたうち回り、清香は悶えた。今、ここが何処だってどうでも良い。この瞬間、これが私は一番好きなんだから……。

「いんっ! いいっ! あっ! ああっ! いぐっ! いくっ!! あ………………っ」
びくっ、と身体がのけぞり、清香は達した。心地よい疲労感が襲ってくる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
再び仰向けになり、ふぅ、と大きく息を付いたときである。
視界に、人影が入った。
「あれ? おかあさん……?」
清香はそう言いかけたが、それが全く違う影であることに気づき、慌てて飛び退くように起きあがった。
「……だっ……誰よあんた!!」
しかし、眼前の人影は応えない。
人影は、良く見ると、奇妙な出で立ちをしている。
頭を覆う、とがった黒頭巾。目の部分には穴が空いているが、そこから表情は解らない。そして、首から足下まで、すっぽり覆う、同じく黒いマント……。
突飛な風貌に、清香が目を丸くしていると、人影が言った。

「ようこそ。コレクション・ハウスへ……」
慇懃な、良く通る男声だ。眼前の清香の痴態など、全く意に介さない様だ。
「…………は?」
再びあっけにとられる清香。いぶかしげな目で、眼前の男を見る。
しかし、黒い男はそんな視線など全く気にせず、続けた。
「清香様、お待ちしておりました。では、こちらへどうぞ……」
そして、くるりと背を向け、歩きだそうとする。
「ちょっと待ってよ!」
やっと我に返り、清香が男を呼び止める。
「コレクション……何とかって、何よ?! ここはアタシの家よ? 様付けは悪い気はしないけど、一体何がどうなってるの?!」
その声に、歩きだそうとした黒い男が向き直り、再び慇懃な口調で言った。
「いいえ。ここは貴女の家ではありません。コレクション・ハウスです。罪深き貴女のための、懲罰の館です」
「罪? アタシ……何かした?」
あっけらかんと応える清香に、黒い男はしばらくの沈黙の後、
「……それを今からお教えいたします。こちらへどうぞ……。」
「うーん……」
しばらく考えていた清香であったが、何故かついて行きたいという気分になってしまった。
そして、部屋全体を教室に問えるならば、教卓がある辺りに二人が来たときだ。
おもむろに、黒い男が指をパチン! と鳴らした。

「わっ!」
思わず清香が声を上げた。
……明るくなった部屋の中心には、十数人の男が居た。皆、きっちりとしたスーツを着ている、ビジネスマン風だ。しかし、顔には真っ白な仮面を着けており、細かな顔立ちまでは解らない。そして、良く見ると、自分の居る辺りには、何処からかスポットライトのような光が当たっている。
それにしても、あの男達は、ひょっとしたら人形だろうか? 生きているような気がしない……。

「それでは、これより被告人、清香の裁判を執り行います。被告人、前へ」
黒い男が高らかに宣言する。
今一つ状況が飲み込めない清香だったが、とりあえず前に一歩出る。
「では、被告人の罪状を読み上げます」
黒い男が、いつの間にか手に持っている、妙に古めかしい巻紙を開いていく。
……異様に通る声で読み上げられた、『罪状』の内容は、次のような内容だった……。

『被告人・清香の罪は以下の通り。一つ。度重なる窃盗。一つ。その為の虚偽の理由による勉学のサボタージュ。一つ。盗んだ品による、そして神聖なこの館にての淫らな行為。一つ。これらの行為に対する、罪悪感の欠如……。以上の罪により、被告人には平手による尻叩き50回、パドルによる尻叩き50回、ケインによる尻叩き50回を申しつける。』

「どなたか、御異議のある方は……?」
罪状に落としていた目を前に戻し、黒い男が尋ねた。
『……、……、……。』
少し、男達からざわめきが聞こえた。そして、
「異議有り!」
何処からか声がした。見ると、最前列左手辺りの男が立ち上がっている。
「どうぞ」
黒い男が促す。
「被告人の身体は糞尿にまみれており、実に汚らわしい。かような身体に我らの平手が直に触れるのは、誠に遺憾だ。よって、平手打ちを無くし、パドルの回数を70回にする事を望む」
その男は、淡々と、しかし黒い男同様身体の芯に直接響くような声で述べた。
黒い男は、しばらくの沈黙の後
「それでは、被告人への懲罰を、パドルによる尻叩き70回、ケインによる尻叩き50回に変更いたします。皆様方、よろしいでしょうか?」
『異議なし!』
一斉に声が挙がる。

「ぷっ……あっはははははっ! なぁにこれ! 裁判? 被告人?……凝ってるわねぇ。何? アタシのお尻叩くの? 『スパンキング』ってやつ? ふーん……面白そうね。やってやって!」
男達のやりとりを聞いていた清香が、突然笑い出した。あまりに現実離れしているためか、何かの冗談だと思っているようだった。
だが、清香が糞まみれの身体をよじらせて笑い始めたとき、その場の空気が凍り付いた。そして

『懲罰の意味を知らぬ愚か者よ……』
『度し難き程、愚かなる者……』
『価値を与うるまでもなし……』
『価値を与うるまでもなし……』
『価値を与うるまでもなし……』

抑揚の全くない、氷のように冷たい群唱が響きわたる。
「え……?」
さすがの清香も、流れる空気の違いに気づく。ふと前を見ると、何かの器具が置いて有る。SMプレイに使うような……三角木馬?いや、高さが幾分低いし、足に拘束具のようなものが着いている。
何だろう?と思っていると

がちゃり

と後ろで音がした。……手錠?
「なっ……なにすんのよ!」
抗議の声も虚しく、手錠についた鎖で、ぐいぐいと眼前の器具の前に引っ張られる。
「うつ伏せに身体を折り曲げろ」
スーツを着た男の一人が、無機質な声で清香に言う。

がちゃり、がちゃり

足を広げられ、器具の足に付いている拘束具に留められる。

一体どうなるんだろう?さっきまでの笑いもどこかに吹き飛び、清香の心臓はものすごい速さで脈打ち始めた。様々なことが頭をよぎる。
「(懲罰って言ってたわね……まさか、あの店の人間? いや、いままでバレずに済んだんだもの。そんなことはないわ。にしても『窃盗』なんて人聞きの悪い事を言うわね。ちょっと貰っただけじゃない。取られるような管理の仕方をしてる店が悪いのよ。……でも、お尻を叩かれるのかぁ。どんな感じだろう? 昔はよくおかあさんに叩かれてたけど……。手じゃなくて、パドル、とか言ってたわね。何のことだろ?でも、どのみちそんなにひどいことにはならないはずよね)」

やがて、ぐいっ、とショーツの引っ張られる感触があった。尻との間に溜まっていた糞が、ぼとぼとと床に落ちる。
「(ああ、いよいよか)」
場違いな『期待』にも似た感情で、清香はその瞬間を待った。
そして……・

びしゃっ!

固く、重いパドルが清香の尻に打ち据えられ、尻にこびりついた糞が飛び散り、激しい音を立てる。
「が…………?!」
痛い。
知らない。
こんな痛さ、知らない……
痛い……!
痛い……!!
いっそう激しくなる心音を感じながら、清香の頭は混乱し始めていた。

ばしっ!

「ぐぅっ!」
二度目の音と共に、後ろから声がした。
「叩く度に数を数えろ。でなければ一回目が永遠に続く」
氷で背筋を撫でられるような感覚。清香は、消え入りそうな声で
「……はい」
と答えた。
「2」

ばしっ!

「ううぅ……に……」
「もっと大きく数えろ。2」

ばしっ!!

「あぁっ!……に!!」



 心臓が口から飛び出すほどに脈打つ。パドルの衝撃が、頭にまでガンガン響く。
後ろ手に拘束された手が、ぶるぶる震える。器具に固定されている足も、ガクガク言っている。今、何回目だろう? 口は数字を言ってるけれど、自分には何回目か解らない。「ばしっ!!」ああっ! ……痛い……。きっと今、自分のお尻は腫れてるんだろうな。なんだか、スースーするような、ピリピリするような……。「ばしっ!」うっ……でも、なんでだろう? 身体の奥が……熱い…………次はいつ? ……え? 今なんて思った?「ばしっ!!」ひっ!!うっ…………痛い、痛い、痛い。涙も、もう出ない。でも、何故? 次の一撃が欲しい私が居る? 何故? 何故? 何故?「ばしっ!」あ……熱い……お尻が? いえ、身体が……?
ドキドキする。緊張? 違う。期待? 次の一撃への期待? 早く……叩いて……。
え? 今、なんて言ったの? 早く……叩いて……もっと……叩いて……。

「60」

ばしっ!

「ろ……くじゅう……はぁ……はぁ……」
茶色だった尻は、赤黒く腫れ上がている。しかし、ぶつぶつと回数を数える清香の顔は、一種、恍惚とした物になっていた。そして、性器からは新たな熱い粘液が滲み始めていたのだ。
「61」

ばしっ!

「あぁっ!! ろくじゅういち!!」
数える声も、喜びのような感情が混じりだしていた。やがて……

「70」

ばしっ!!

「嫌……もっと……もっとぉぉっ! 叩いてぇ! 叩いてぇぇッ! アタシのお尻ィ……! グチャグチャにぃぃぃ!」

清香はついに叫んだ。それは、今や心からの欲求であった。今気づいた新しい快感に、もっと浸りたい。理由なんてどうでもいい。もっと叩いて欲しい! そう思って、素直な気持ちを口にした。

しかし、その叫びが発せられた瞬間、
「あっ……!?」
突然、身体の下にあった拘束器具が消えた。
「……え?」
顔を上げる。ひたすらの闇。
黒い男も、スーツの男達も、いや、部屋の壁やロウソクすら見えない。完全な闇。
「な……何? どうしたの?」
熱く火照る自分の身体は本物だ。しかし、手足は手錠で拘束されたままだ。
「ねぇ! みんなどこ行ったの? ねぇ!」
その声すら響かない。眼前にはただ、闇のみが広がる。
「ねぇ……もっとアタシのお尻叩いてよ! 身体が熱いの! ねえったら!」
相変わらず、返答はない。
「お尻叩いて! ねぇ!! アタシをイかせて!! お願いよぉ!」
必至の哀願も、届かない。
「あっ……んっ……くっ……のっ……」
熱くぬめる性器を触りたくとも、手錠のせいで届かない。
ほんのひと触りで、イケそうなのに、できない。
「なんとか……して……おかしく……なりそう……」
痛さではない涙がこぼれる。しかしそれでも、闇からは何も聞こえない。

「ナントカシテェェェェッ! オネガイヨオォォォッ!!!」

清香は、いつまでも、いつまでも闇の中で叫び続けた……。



 警察に捜索願を出して、もう随分経つ。しかし、清香の手がかりは全くない。
結局捜査は打ち切られ、この失踪は『神隠し』だ……ということになった。
ー了

コレクション・ハウスの夜

「いってきまーす」
小柄な体に、長いストレートの髪をなびかせ、溌剌とした声で家を出る。
いつもと同じように思える朝。しかし、今日の久美子は朝からひどい倦怠感に襲われていた。特に何か悩みがあるわけでもない。体の調子が悪いわけでもない。ただ、純粋に、日々の暮らし―即ち会社勤め―が嫌なのだ。こんな日は、思いきり怠惰に時間を過ごしたい気分になる。しかし、親と同居している手前、仮病を使って休むというのはそう使えない。ではどうするか。
それは、いつもと変わらないように朝出かけ、会社には行かずに、ひたすら街中をぶらぶらし、夕方に家に戻るのである。
喫茶店のはしごをするのも良いし、映画館で粘っても良い。思い切って少し遠出をしてみることもある。勿論、あらかじめ会社の方には家から電話で休む旨を伝えておく。そのままの声だとまずいので、出来るだけ病気らしい声で話す。
更に加えて念のために、自分の部屋から携帯電話で掛けるのだ。高校を卒業して四年、初めのうちは五月病で魔がさした程度だった。しかし、毎日の単調な作業に飽き飽きしている事と、翌日の同僚達の心配そうな顔と、何気ない気遣いが、久美子を病みつきにさせた。
今では、『あの子は体が丈夫じゃないから、無理強いはよそう』という雰囲気ができあがっている。
その、自分に向けられた空気を味わうことがまた、久美子にはたまらなく楽しかった。
しかしさすがに、そう頻繁に休むと不審に思われるので、せいぜい月に一度位しか出来ないのであるが。

かくして、その日も『休日』にした久美子は、会社の人間に会うのを避けるため、いつもの通勤路から外れ、あてなくぶらぶらし始めた・・・・・・

そして夕方、日も暮れかかる黄昏時。
勤めを終えたサラリーマンの波が、駅から押し寄せてくる。
その一様に疲れた顔を、流れの外から見て久美子はいつも、
『あーあ、可哀想に』
と、嘲笑混じりで見つめるのだ。
それは、傍目にとても残酷で、本人には、とても楽しい一時だった。

駅前では、相変わらず、何処から湧いて出たのか派手な色の髪をした若者が、テレクラのティッシュを配ったり、勤め帰りの一杯を当て込んで、居酒屋の店員が店のチラシを配ったりしている。
関係ないや、と素通りしようとしたときである。
「お嬢さん…」
と、後ろから声がした。
(勧誘ならお断りよ!)
そう態度で示し、久美子は歩を進めようとした。すると
「お嬢さん」
もう一度声がして、見ると、いつの間にか目の前に人が立っている。
「はぁ?!」
久美子は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。無理もない。彼女を呼び止め、今目の前に立っている男の出で立ちは…かなり大柄な身の丈を覆う黒いマントに、同じ色の、肩まで隠れるとがった頭巾…そう、工事現場に置いて有るコーンのような…あるいは、物語に見る、黒魔術を行う人間の被るような…そんな頭巾。目の部分は空いているが、そこから中の顔を伺うことは出来ない。
普通、こんな格好で街中を歩いていたら、間違いなく警官に職務質問されるだろう。しかし、警官はおろか、道行く人も全く気に留めていない。

久美子が呆気にとられてぽかんとしていると、三度男の声がした。
「お嬢さん、これをどうぞ…」
そう言って、おもむろに一枚のチラシを差し出した。
その手を無視する事もできたのだが、何故か素直に受け取ってしまった。
B5サイズの赤い紙には、銀のインクでこう書かれていた。

『罪深き貴女へ…コレクション・ハウスへようこそ!』

チラシには、その文字しかなかった。
他のチラシに見られるような要素は一切無く、ただ、その一言だけであった。
「なによこれ?!」
チラシに目を落としていた久美子だったが、男に投げかけた言葉は、結局宙に浮いたままになった。再び顔を上げたときには、その男の姿は無かったのである。

「もうっ! 訳わかんないなぁ!」
腹立ち紛れにそのチラシをくしゃくしゃと丸め、久美子はそれを、道ばたに思いきり投げつけた。

そろそろ家に帰るかと、道を急ぎ始めるうちに、久美子はチラシの事など忘れてしまっていた。しかし、家までもう少しという所で、ふと、何か道の風景が違っているかのような印象を受けた。
「…?」
殆ど同じ道だが…良く見ると、前はコイン駐車場があった場所に、建物が出来ている。
西洋の田舎風の一軒家を思わせる造りで、窓にはステンドグラスが飾られている。全体としては美しいのだが、自分が今立っている辺りには、そぐわない風貌である。
喫茶店か何かだろうと思って、前を通り過ぎようとしたときである。扉の上に掲げられた看板の文字が目に入った。

『Correction House』

その文字が視野に入った瞬間、久美子は、はたりと足を止めてしまった。
妙に気になって、ふらふらと扉の方に歩いていく。
…建物の前までやってくると、異様な圧迫感を感じた。しかし、何故か気になる。窓のステンドグラスから中を窺おうとしたが、何も見えない。
(ぎぎぃぃ…)
木で出来ているようで、やけに重い扉を開け、中をのぞき込む。…真っ暗だ。
良く見ると、階段が下の方に伸びている。ひゅぅっ…と、冷たい風が下から通ってくる。
「・・・・・・・・」
(こつっ…こつっ…こつっ…)
引き寄せられるように、久美子は階段を一歩踏み出した。
長い。降りても降りても下の階にたどり着かない。振り向くと、入ってきた入り口の扉も既に見えない。都会の真ん中にこんな地下が…?
そんな疑問も、やがてけし飛ぶほど、その階段は長かった。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
どのぐらい降りたか解らないが、とうとう疲れはてて段の途中に座り込んでしまった。
額に滲む汗を手で拭い、ふと、前を見たときである。
目の前に、扉があった。
(ごくり)
意を決してドアの取っ手を引き、久美子は中に入っていった。
入り口の扉と同じく、重い扉が音を立てて開いた。
…ぬるり、とした温かい空気が充満している。壁はレンガ、床は板張りらしい。
歩く度にギシギシと音がする。壁には幾本ものロウソクがあり、仄かな明かりを供している。しかし、数歩先までしか見えず、部屋の全体がどうなっているのかは解らない。が、かなり広いようではある。
どうなってするのか訝しんでいると、不意に、あの声がした。
『ようこそ…』
驚いて前を見ると、駅前で会った、黒ずくめの男が立っていた。
「あ…」
久美子が二の句を継ぐ前に、黒い男は慇懃な声で続けた。
「ようこそ、コレクション・ハウスへ。お待ちしておりました。早速、始めさせていただきたいと思います」
不思議と体の隅々まで響く様な声に、「何を?」の言葉が出てこなかった。
「では…」
黒い男は、パチン!と指を鳴らした。
すると今まで真っ暗だった部屋が急に明るくなった。
自分の前には、2,30人の男達が椅子に座っている。皆、きっちりとしたスーツを着込んではいるが、顔に亡霊のような仮面を付けていて、どんな顔なのか解らない。しかし、何よりも空恐ろしかったのは、『視線』を感じないことだった。確かに男達はそこにいる。だが、傍目に見ると人形…いや、蜃気楼か幻のような印象なのだ。
「では、これより、被告人久美子の裁判を執り行います。被告人、前へ」
黒い男が前の男達に向かって、同じように異様に通る声で言った。
(裁判? 被告人? 何これ?)
ぽかんと口を開けている久美子の両脇に、いつの間にか黒い男が二人現れ、腕をつかんでずるずると前へ引っ張っていく。凄い力だ。
殆ど抵抗らしきこともできず、久美子は男達が座っている前…ちょうど小さなステージほどの空間の中央に立たされた。
「では、これより被告人の罪状を読み上げます」
黒い男が、ひときわ高らかな声でそう言った。良く見ると、手には筒状に丸められた紙がある。しかも、何故か古めかしい。その紙が、ゆっくりと、かすかな音を立てて開かれる。男が読み上げる内容は、以下の通りであった。

『被告人・久美子の罪は以下の通り。一つ。度重なる、正当な理由無き、虚偽の欠勤。一つ。それに伴う、家族への欺瞞。一つ。同じく働く者達への、言われ無き蔑視。一つ。紙屑の不法投棄。…以上の罪により、被告人には、平手による尻叩き50回、パドルによる尻叩き50回、杖(ケイン)による尻叩き50回を申しつける』

「どなたか、御異議のある方は…?」
男は、紙に落としていた目を、ふと、前に戻した。
「異議なし!」
一斉に声が挙がる。しかし、その声には抑揚や、感情らしきものが無いように思われた。
「ちっ…ちょっと! 何言ってるのよ! 冗談じゃないわ! いきなり訳わかんないこと言わないでよ!どうして私がお尻なんて叩かれなけりゃならないの?! アタシが 何したって言うのよ? ズル休みも、親に嘘つくのも、ゴミを道に捨てるのも、みんなやってることじゃない! おかしなカッコして! アンタ達、狂ってるわ! この変態!!」
ようやく我に返った久美子は一気にまくしたて、きびすを返してそこから出ようとした。その時、彼女は一つの変化に気づいた。
…出口が、無くなっていた。
「えっ…?」
出口があったはずの壁を呆然と見つめる久美子の背中に、声が多い被さる。
「罪が又二つ…」
「罪悪感の欠如…そして」
「我々への言われ無き侮蔑…」
「罰を与えて、しかるべき…」
「罰を与えて、しかるべき…」
「罰を与えて、しかるべき…」
全く抑揚のない、芯まで冷たい群唱が、氷の矢のように背中に突き刺さる。
久美子は、壁に映る自分の影を見ながら、額に多量の冷や汗を感じていた。
気が付くと、また両脇に別の黒い男が二人現れ、両腕を抱えて久美子を強引に元いた場所に引っ張っていった。
再び視線を正面に戻したとき、群唱はピタリと止んだ。
「それでは」
何事もなかったかのように、進行役の黒い男が言い始めた。
「この罰の執行人を募ります。私の提示する始めの価値は、50からにさせていただきます」
「60」
「100」
「150」
…男達は口々に数字を口走っていく。どうやら競りのようだ。しかし、その単位が金銭なのか何なのか、久美子に考えることはできなかった。
「…300」
やがて上がったその声の後に、対抗する者はなかった。
「300。他に、ございませんか?」
「・・・・」
「では、決定とさせていただきます。どうぞ・・・・」
男の群の中から、一人、足音も立てずに前にやってくる。
「ベント・オーバー(折り曲げ)か、オーバー・ザ・ニー(膝乗せ)、どちらがよろしいですか?」
「…オーバー・ザ・ニー」
黒い男の質問に、これも抑揚のない声でぽつりと言う。
「わかりました。では…」
パチン、とまた指を鳴らすと、傍らに椅子が現れた。そして、競り落とした男がそこに座る。
「来なさい」
冷たく、有無を言わさぬ声で、男が言った。怯えるように従う。
「私の膝に、うつ伏せになるように、身を屈めなさい」
おそるおそる言うとおりにする。
…冷たい。男の膝から太股にかけて、久美子の躯が触れているはずなのに、男の躯からは体温を感じなかった。石のような…いや、もっと、死人のような感触だ。背筋を、空恐ろしさが走る。
「では、行くぞ。叩く度に数を数えなさい」
自分がどうなるのか、不安と恐怖で久美子には男の声が聞こえなかった。
「返事は?」
体の芯に突き刺さる様な冷たい一言が後頭部越しに降り注ぐ。
「はい…」
ぶるぶると小刻みに震えながら、消え入りそうな声で呟く。
「行くぞ。…一つ」
(ばふっ)
「き・・・・っ」
服の上から故、音は鈍いが痛さは同等だ。
「ひ…とつ・・・・」
奥からこみ上げる痛さに耐え、声を絞り出す。
「二つ」
(ばんっ)
「・・・・っ・・・ふた…つ・・・・」
通る音ならまだしも、どこか間の抜けた音が、その音を立てている当の久美子には、いっそ情けなかった。

いや、今現在、『尻を叩かれている』この事実が許せなかった。
久美子は子供の頃からしっかりした子供だった。悪く言えば、ませていた。大人の小言も巧く言いくるめ、あるいは有無を言わさぬ反論で、我を通してきた。そのうち、久美子の行動に口を挟む者は誰も居なくなり、遠巻きに、薄い笑みで囲むようになった。その時久美子は『勝った』と思った。自分は誰にも邪魔されない、自分が正しい。怒られるのはバカだ。そうして育ってきた。
その自分が、全く見知らぬ人間に、しかも大勢の前で、こんな情けない音を何度も立てて、尻を叩かれている。『子供』だ。
情けない! 情けない!!
定間隔で襲い来る痛みに歯を食いしばり、痛さと同時に悔し涙が床に落ちた。

「25」
「にっ…じゅう…ご・・・・・」
ようやく半分。しかし、そこで男は、はたと手を止めた。
「・・・・・・?」
(もう終わり? 50って言うのは嘘?)
久美子の甘い考えは、急に感覚が変わった下半身によって、脆くも打ち砕かれた。男は、無造作に彼女の尻をむき出しにしたのだ。
丸く形のいい尻は、赤く染まっている。
「なっ、なにすんの…ぎゃあっ!!」
(ぱぁん!!)
抗議の声を上げる間もなく、鋭い痛みが襲ってくる。
「26。…どうした。答えんのならもう一度だ。26」
(ぱぁん!)
「うぅあっ! …くっ…にじゅう・・・・ろ・・・・く…」
抗議の言葉も今の一撃で火花と散った。再び、今度は妙に澄んだ音と、悲鳴が、広い部屋の中にこだまし始めた。
「…40」
「…よ…ん・・・・・じゅう・・・・・・」
後10回。後10回だ…。真っ白になっていく頭の中で、久美子は念仏のように「あとどれだけ」を数えていた。
その方が、いくらか耐えることが出来る。長距離を走るのと同じだ、と、場違いなことも考えていた。そう、その後の他の器具による『罰』の事も忘れて。
「50」
「ごじゅう!」
思い切りの良い声で久美子は応えた。
終わった。やっと終わった・・・・・・。
ほっと息を付いていると、不意に尻に冷たい物を感じた。冷やしてくれるのかな?そんな期待をしていた事を、彼女は数瞬後に悔やんだ。
「ーーーーーっ…ご・・・・は・・・・っ」
ひゅんっ! と風を切った様な音の後のそれは、重く、固く、面積の大きいパドルでの一撃だった。瞼の裏に火花が散る。胃の中の物も衝撃で逆流するかのようだ。すっかり混乱しているところへ、あの声と、二撃目が来た。
「数えろ。もう一度初めからだ。一つ」
(ぱんっ!)
重く、乾いた音が響く。
「ぎっ…ひっ…い…ち・・・・・」
今まで全く想像し得なかった痛みに、絞り出すように応える。



膝が震える。口はだらしなく開き、涎が幾筋も糸を引いて床に滴っている。
その奥で、歯ががちがちと痙攣している。歯の根が合わない。鼻からは、水ばなが垂れている。虚ろになった目からは、あらん限りの涙が溢れ、化粧も何もぐしゃぐしゃにしている。
今や赤紫に内出血している尻は、感覚がないと言っても良い。しかし、一方で、迫り来るパドルが裂く空気の流れさえ解るほど敏感になっている。そして、涎の奥から「サンジュウハチ…ヨンジュウ…」と、譫言のように数を呟いていた。
そして、何故か久美子は、そんな自分がなぜかおかしくてたまらなくなっていた。
「50」
「あはっ…こじゅうっ! …あはは…おわったぁのぉ! おわったぁ! たぁの!!」
膝からごろりと転げ落ち、久美子は床にのたうち回りながら、自分の流した涎と涙にまみれ、何かに憑かれたように笑い出した。とにかく、何がおかしいのか解らないが、笑いがこみ上げてきて仕方なかった。
「おわりぃ! おわりぃぃっ! くすっ…うふっ…くひゃはははっ!」
しかし、その久美子の狂態を上から見ていた男は、ぱちんっと指を鳴らした。
そして、二人の黒い男がまた、久美子をかつぎ上げ、今度は壁に向かって立たせた。
久美子がもがくので、ちょうどうつ伏せに磔にするように手首を壁に押しつける。
・・・・・そして
(ぴしっ!)
「ぎゃんっ!!」
犬のような悲鳴を上げ、粘液まみれの狂った笑いが凍り付く。
音こそしないが、細いだけに衝撃が集中する器具、ケイン(杖)である。
「最後だ。数えろ。ひとつ」
(ぴしっ)
「ぎいっ! …いち・・・・」
痛さに身をよじっても、床にへたりこみたくても、壁に手首を固定されているためにそれもままならない。
(ぴしっ)
「ぐぅおろっ…に・・・・・」
喉の奥に溜まった涎が、奇妙な音を立てる。
(ぴしっ…ぴしっ…ぴしっ…)
内出血を起こした皮膚が裂け、血が滲み始めている。もう何も考えられない。
まるで魂が遊離して、自分を上から見ているようだ。なんて滑稽なんだろう。
なんて、おかしいんだろう・・・・・。
「30」
「いぎっ…ひはっ・・・・・さん…じゅう…うふ…うふふっ・・・・・きひっ! きひぃやはははっ!! あはっ! あばばぁーーーっ」
『何か』がはじけ飛び、久美子は束縛を振りほどかんばかりの力でもがき、前にも増して大声で笑い出した。
もう痛くない。だって、こんな汚い躯、私の物じゃないもの。そうよ、これは違う人の躯なのよ。
だから、痛く、ない。こんなの、私の、躯じゃ、ない。
信じられない力で暴れる久美子を、黒い男がそれ以上の力で壁に押しつける。
そして再び、(ぴしっ…ぴしっ…)と尻を打ち据える音に
「さはんじゅういちぃひひひっ・・・・にぃぃぃぃ…うぶふふふっっ…」
気が狂れたように、身をよじりながら応える女の姿があった。



「50。」
遠くで聞こえた声。そして、
(びしっ!!)
最後の渾身の一撃が、稲妻のように久美子の躯を突き抜けた。
「ぴ・・・・・・・・・・」
白目を剥き、びくり、と躯が硬直する。
「懲罰終了」
耳の奥で聞こえた声と共に、手首の戒めはなくなり、久美子は糸の切れた操り人形のように、ぐしゃり…と崩れ落ちた。


「うふ…うふふ…うふ…あは…あふははっ…」
完全に虚脱し、誰も居なくなった暗闇で一人『嗤う』久美子。
そして、虚ろな視界に、入ったときに通った階段と、その先の光が入った。出口?
「あ…あうあ・・・・」
力の入らない四肢を引きずり、彼女はずるずると這って階段を上り始めた。
「はぁ…はぁ…あ…あう・・・・?」
しかし、幾ら上っても光は近づいてこない。いや、むしろ遠ざかっている。
「あう! あうぐぉ!! えぐごぉぉぉっ!!」
どうして?! もう力が出ない。哀しみの涙を流し、彼女は叫んだ。そして、
暗闇から「あの声」が降り注ぐ。
「懲罰だ…」
「懲罰だ…」
「懲罰だ…」
流れた汗も、一気に引いて行くほどの恐怖。一番考えたくない『もしかして』が心に浮かぶ。
「あ…あ…あぁーーーーーーーっ!!」
恐怖と絶望の叫びが、暗闇にこだました…。


「あぁーーーーーっ!」
目を開ける。自分の部屋。外を見る。
朝だ。・・・・・・夢?
涙でぐしゃぐしゃになった顔を手で拭い、起きあがろうとしたときだ。
「ぎひっ!」
尻に鋭い痛みが走った。
・・・・・・・・・・・・まさか・・・・
おそるおそる起きあがり、寝間着の尻をめくって、化粧台の鏡で見てみる。
「ひ・・・・・っ!!」
確かにそこには、赤黒い内出血と、ミミズ腫れの、自分の尻があった。それからの久美子が真面目になったかというと、そうでもない。あの建物があった道は、避けて通るようになった。そして、そこでの夜のことは、時と共に記憶の奥底に埋もれ、思い出すことも少なくなった。いや、自らが埋もれさせたのかも知れない。
相変わらずズル休みはするが、頻度は少なくなった。

しかし、時々耳の奥でこんな声が聞こえるときがある。そんなときは、たとえ一時でも、真面目になろう、と自分に言い聞かせるのだ。

『コレクション・ハウスへようこそ!』

ー了