D's NEST

聞こえる声 6

6. 外からの声

 その日の夜。わたしは宿題を済ませるべく、机に向かっていた。
「………」
でも、手に持ったシャーペンは、トントントン……とノートに斑点を増やしていくだけで、解くべき問題は一向に頭に入ってこなかった。
食事は十分に摂った。ドラマを録画する予約も終わった。それでも、落ち着かない。
……理由はわかってる。ノートの傍らには、今日配られたプリントがある。それを見ていると『彼女』のことを思い出してしまうのだ。

『彼女』は、あんな娘だったろうか? あんなに明るく笑って、人をからかうようなことができる娘だったろうか? 以前の彼女は……もっと、影があるというか……壁を作ってるような、そんな娘だったのに。
もちろん、わたしが知らないだけで、親しい人にはそうなのかもしれない。

親しいと言えば、『彼女』について思い出すことがある。
時々だけれど、一人の女子生徒が、放課後に彼女の席に行くのを見る。その彼女も、どっちかというと暗くて、周りとあまりうち解ける風もなく、同じく影のある……そんな娘だった。ただ、『彼女』の成績のように目立った特徴があるわけじゃないので、本当にその娘を知る者は、クラスにはいないんじゃないだろうか。そんな娘だ。
……席にやってきたその娘と『彼女』は、ほんの二、三言言葉を交わし、その後、一緒に帰るのだ。その時の『彼女』の顔は……すごく暖かく、優しかった。
……きっと、『彼女』こそ『変わった』のだろう。何がきっかけだったのか、わたしには分からないけれど。

「…………」
カリカリカリ……と、手がノートの上をすべる。
手が止まったとき、そこには、あの言葉が書かれていた。

『目の前が果てのない闇であっても、見上げてみれば、それは星のある夜だったということもある』

結構長い言葉なのに、すらすらと書けた。
唱えてみると、『彼女』の顔が浮かんでくるようだった。プリントの上の『彼女』は、それに続けて『大丈夫、大丈夫……』と、『わたし』に言い聞かせているようだった。
「はあっ……」
胸の奥がきゅうっ……となり、どんどん息が上がってくる。その不自然な鼓動を確かめるはずの手は、ゆっくりと円を描き始め、ペンを持つ手は、股間へと伸びて行った。ぐにゃり……と視界が歪み、一瞬、意識が遠のく。そして……

『……あっ……?』
わたしは、机のそばに立ち、椅子に座ったままオナニーにふける『わたし』を見ていた。周りは、いつのまにか教室になっていた。席を埋め尽くすクラスメイトたち。みんなが、自分の席でもだえている『わたし』を見ている。
『もっと見てあげたら? それとも、もうクラス中じゃ物足りない?』
聞こえる声に隣を見ると、そこには『彼女』がいた。あの、夕暮れの教室でのように、にっこりと包み込むような笑顔で。聞こえた言葉は、わたしからすれば、とても残酷なことなのに……。
「あひっ……は……あぁあ……んっ……うふぅうぅん……っ!!」
椅子の上の『わたし』は、パジャマをはだけさせて胸をもみしだき、あえぎ声に髪を振り乱し、アソコからクチャクチャと音を出し、ノートによだれのしみを広げながら、ますますみだらになって行く。とろり……とした目で、そばのわたしに言う。
「み……見てぇ……もっとぉ……もっとぉ…………!」
『…………!』
わたしは『わたし』から目を離せなかった。隣から、『彼女』の声がする。
『委員長、これもあなたよ。でも誤解しないで。私は、あなたをさげすむつもりはないわ。受け入れたほうがいい……って言いたいの。アタシがそうだったように……』
『アタシ』という、『彼女』の一人称。きっとそれが、『彼女』の中の『わたし』なのだろう。
『あなただけじゃない。だから、自分を責めることはないの……』
『彼女』は、わたしと同じく『わたし』をじっと見つめながら、あくまでも穏やかに言った。

『これも、わたし……彼女も、そうだった……』
思った瞬間、教室は消えた。そして……
「あんっ……んっ……! ひっ……いっ……く……うぅうーーーっ……!!」
……わたしは、思いっきり達した。

次の日。宿題のプリントは忘れて帰ったことにして、友達にコピーをもらい、提出する授業までに突貫で解いた。いわゆる内職をするわたしを見て、その娘は、「あんた、そんなに大胆だったっけ?」と、ちょっとあきれたように言った。
黙々と予習をしている『彼女』の方を見る。でも、話すことはない。昨日のあれは、わたしの生んだ幻にほかならない。『彼女』は、何も知らないはずだ。
『あなただけじゃない。だから、自分を責めることはないの……』
『彼女』の台詞がよみがえる。でも、すべてがわたしの妄想ならば、この言葉も、結局はわたしの自己弁護だ。そう思うと、自分の中で折り合いがついたとは言え、ちょっぴり寂しかった。
「どうしたの、委員長? 浮かない顔してるわよ」
「えっ……」
伏せていた目を上げると、そこには、『彼女』が立っていた。昨日の妄想の教室でと同じように、優しく微笑んでいる。
「あ……あの……」
「昨日は、よく眠れたでしょ?」
「はっ……?!」
「でも、内職なんてしないほうがいいわよ。慌てると間違えるから。じゃね」
振り向きざま、もう一度にこりと笑って、『彼女』は自分の席に戻って行った。
「あ………ああっ………」
昨日の妄想が、まるで現実だったかのようなその言葉に、わたしは、口をパクパクさせながら、かあっ……と熱くなって行く体を感じていた。

それからの授業は、何がなんだかわからなかった。
先生の話す内容も、まるで筒抜けだった。
ただ、昨日の妄想の教室での風景、『彼女』の言葉、笑顔、わたしの痴態、きっかけになったビデオのシーン……すべてが、とてつもない速さで、火花のようにチカチカと、そして、繰り返し繰り返しわたしの中を疾走した。
その間わたしは、体のうずきを抑えるのに必死だったのだ。

もやもやとした気分で過ごす時間は、とても、とても長い。
一日が終わるころには、わたしは疲れ果てていた。
早く家に帰って、このうずきを何とかしないと……そればかり考えていた。

もじもじとした足で歩く帰途。長い。すでにじっとりと濡れているアソコ。実際はかすかなはずの音が、まるで耳元にそのどろどろとした裂け目があるかのように、大きく、いやらしく響く。しかも、進むたびにその粘りはますます激しくなり、ひくひくと何かを訴えるようにひだが震える。それは、エサを前にして飼い主に『待て』を言いつけられた犬が、だらだらとよだれを流しながら切なげに鳴く様を思い起こさせた。

「はあっ……はあ……あ……くっ……」
荒い息をつきっぱなしだったから、喉はからからだった。たまらず、手近な自動販売機でスポーツドリンクを買い、一気に飲み干した。体中に行き渡る冷たい感覚も、わたしの中でチロチロと燃える炎を消してはくれなかった。
あいかわらず、頭の中を巡るのは、妄想の教室でのわたしと『彼女』、何度も観たあのビデオのシーン。さっき摂った水分が、もう汗になって噴き出して来た。
「水分……汗……おしっ……こ……」
うわごとのようにかすかにつぶやきながら、さらに足を引きずって行く。
「あ………」
大通りまでやってきた。横断歩道の縞模様が、果てしなく長く見える。
周りには、たくさんの人、人、人……。みんな、信号を見つめ、変わるのを待っている。

わたしも信号を見つめながら、一つのイメージを、終わりなくめぐらせる。
あのビデオのラストシーン。
大通りで、おもらしする女性。
さまざまな目でそれを見つめる、無数の目。
もし、それがわたしだったら……?

想像してみる。強く、強く……。

おしっこをずっと我慢しているわたし。信号が青に変わる。
人ごみにまぎれ、歩き出す。そして、道のど真ん中で……わたしは、けつまづく。
「あっ……!」
がくん、と崩れ落ちる世界。繰り糸のちぎれた膝。反転する血液。かき混ぜられる膀胱。
それらは、わたしの中のかせを壊すに十分だ。
ぱんっ! ……と何かがはじけるように、わたしの股間から、熱い、熱いおしっこが噴き出す。じゅううう……っと音を立てて……ショーツも、スカートも、全部巻き込んで、どんどんどんどん染みが広がる……。

 しゅしゅしゅしゅしゅしゅしゅしゅ…………

出る。音を立ててどんどん出るおしっこ。
いつまでもいつまでもどんどんどんどんどんどんどんどん……

「おい、どうした? お嬢ちゃん」
「わっ! この女、ションベン漏らしてやがる! きったねえ……!」
「まあ……どうしたのかしら……かわいそうに……」
「さっさとどけよコラ!」

周りから聞こえる声、声、声、声、声……
心配、軽蔑、好奇、侮辱……わたしを見て、みんなが言う声。
見てる……みんな……見てる見てる見てる見てる見てる……!!
見て……もっと! もっと見て! もっともっともっともっともっとぉ……!!

「きひっ………は……あっ……!! あぁぁっ……!! あはああっ……!!」

はいつくばったまま、ぐしゃぐしゃに泣きながら、それでも何度も何度も、わたしは最高の絶頂を迎える……。

……いや、迎えていた。
そう……
わたしは、想像した通りのことを、そこで実際にやっていたのだ。

そしてわたしは、気を失った。

……それからのことは、よく覚えていない。
誰かに抱えられ、目を覚ましたときには、交番の宿直室で横たわっていた。
まだ若い男の巡査と、お父さんぐらいの年の巡査長が、何も訊かずに、とても優しくしてくれた。
巡査は、わたしのために、コンビニまでショーツを買いに走って行き、巡査長は、早く帰れるようにと、スカートを一生懸命ドライヤーで乾かしてくれて……。
すごく嬉しかったのと同じぐらい、恥ずかしかった。もし、わたしがこうなった本当の理由を知ったら、この人達はなんて思うだろう? わたしのアソコが、おしっこ以外のもので濡れているのだと気づいたら……。
「あ……っ……」
わたしは、吊り下げたスカートを一生懸命乾かしている巡査長の後ろ、腰に巻いたバスタオルの下で……まっさらなショーツに、また、新しい染みを広げていた。

「あの……本当にありがとうございました……!」
「いえいえ、気にしないでいいですよ」
「これからは、体調の悪いときは無理をしないようにね」
「はい……」
深くお辞儀をして、わたしは交番を出た。

外は、もうすっかり日が暮れていた。
家には、交番から連絡してあるから、ゆっくり歩いて行こうと思った。

「わあ……っ……」
ふと立ち止まり、見上げた空。
星がまたたく、夜のとばり。
闇が、わたしの目から流れ込んでくる。

体に残る、余韻とともに思う。
わたしは、確かに闇の中へ飛び込んだのだろう。
でもそこには、この星のような光―同じような人も確かにいる。
それも、きっとたくさん……。
夜空の星は、一つじゃないんだ。

でも……
この星空の下、わたしはどこへ行くんだろう?
分からないけれど、まずは……『彼女』と、ゆっくり話をしてみよう。

そんなことを思いながら、わたしは再び歩き始めた。

―おわり