聞こえる声 5

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5. 『彼女』の声

 それからの後始末は、結構大変だった。幸い床はほとんど汚れなかったから、シーツの洗濯だけですんだけれど、夕方に帰ってきた親への言い訳を考えなくてはいけなかったからだ。結局、早引きしたことを説明し「熱冷ましのタオルを絞る洗面器をひっくり返した」という、ちょっと無理がある理由をでっちあげて、なんとかやりすごした。

次の日からは、きちんと学校に出て、何事もなく日々を過ごした。

……いや、あの『犯人』……ビデオを観ることによって目覚めた、『わたし』とのつきあいが始まった、と言うべきだろうか。

凶悪犯がどれほど罪を重ねようと、身を挺してかばう身内はいる。
それはわたしの場合、『たくさんの人に見られると興奮する』というどうしようもない衝動と、『わたしがそんなことを思うはずがない』という、今までのわたしとのせめぎ合いだ。
ふたつは、様々な場所で火花を散らす。
たとえば、わたしはあれから、ちょっと派手な下着を買うようになった。それは、おしゃれへの意識と言うことでいいだろう。でも、時々タンスの前で考える。『もし、下着を着けないで学校に行ったらどうなるだろう?』と。何をばかなことを! すぐさま、反対する声が聞こえる。大抵は、その声の剣幕に負け、『わたし』はあきらめざるを得ない。そして大体の場合、想像だけに留めるのだ。

そんな『身内』も、声を出すいとまのない時がある。
ホームルームだ。
ホームルームは、わたしが委員長になった一番大きな理由。みんなの注目を一番集められる場所。『わたし』が一番活気づくところ。

「はい、注目して下さい」
張り上げる声はやめた。周りに、よく注意を払うために。そのかわり、自分でも意外なほどに、声が通るようになった。
わたしの声に、クラスじゅうが注目する。
わたしをじっと見る、四十かける二の目、目、目、目、目、目、目……
「(はあっ……あっ……あぁぁっ……)」
目の焦点がぶれ、頭にぽうっと血が上り、興奮にかくかくと笑う膝。
よだれが溜まり始めた口から、震える声を出す。
「……それでは、ホームルームを始めます」
……股間のぬめりは、これ以上なくはっきりとしていた。

放課後。日の傾きかけた、誰もいない教室で、わたしは一人、教壇に立っていた。『空気の反すう』をするためだ。
いや、今はもう、『視線の反すう』と言った方が良いだろう。わたしは、みんなの幻の視線に犯されるために、一人残っているのだ。
「……それでは、ホームルームを始めます」
口の中で呟くと、クラスのみんなが席に現れる。
わたしをじっと見つめ、進行を待っている、人数分の目……。
「あっ…………」
誰もいない今なら、くすぶったままで消さざるを得なかった興奮の炎が思い切り燃やせる。みんなの雰囲気が残る机、わたしを見つめるみんなの視線を一層濃くしていく。『おい、委員長、なんか変じゃないか?』『具合でも悪いのかな?』『叫び過ぎじゃない?』……そんな声まで聞こえて来るようだ。
「はっ……あ……あぅ……ん……」
わたしの手は、スカートのファスナーから、中へ滑り込んでいる。
ぬるぬるくちゅくちゅという感触が、ショーツの生地と相まって……熱さも加わって……気持ちよくて……
「はあっ……あっ! あはっ……もっと……もっと見て……見てぇ………!」
教卓を抱え込むようになりながら、もだえるわたし。びくん、びくん、と震えるたびに、一人では重くて持てない教卓が、がたり、がたりと跳ねた。

『おい見ろよ、委員長の顔、妙にやらしくねえか?』『ねえねえ、あの娘の手、スカートの中に行ってない?』『息も荒いみたいだ』『変な音もしない? 後、何か生臭いような……』
幻のみんなの声は、どんどんエスカレートしていく。みんな知ってるんだ。わたしが、教室で一番目立つ場所に上ってオナニーしてるの。みんなに見つめられてどうしようもなく興奮してるの、みんな知ってるんだ……。
『変態だ……』
『変態よ……』
『変態……!』
「そっ……そう! そうなの! 『わたし』、変態なのぉ……! みんなに見られて興奮してるの! イきそうなの……!」

はいつくばった教卓の上に、どろどろとよだれをこぼし、靴下には、股間からしたたる熱い物を染み込ませ、がたがたがたがたと揺れる音は、わたしの腰なのか教卓なのか……分からなかった。
「あはっ……ひっ……い……いぃっ……! いっ……いく……もっ……あぁあっ……!」
中に沈めた指に、きゅるきゅるとヒダが絡みつく。
とどめとばかりにえぐり、こすり、さすり、つねり……
「あはぁっ……!!」
呼吸が出来なくなる一瞬とともに、わたしの身体は、とろけるように力が抜ける。ずるずると崩れ落ち、そのままへたりこんでしまった。

「はあー……」
考えるとはどういうことだったか、というぐらいに、わたしの頭の中はまっさらな状態になる。
これまで数回、ホームルームのたびに『これ』をしている。教室にいながら、漢文も数学の公式も英語の文法も歴史の年号も……何もかもが抜けていって、気持ちよくなれる……『わたし』は、すっかり気に入ってしまっていた。
「さ……て……と……」
いつものわたしが再び眉をつり上げて現れるまでに、後かたづけをしなければいけない。『わたし』は、のろり……と起きあがろうとした。

その時……

がらっ……

「……はっ?!」
扉の開く音がした。わたしは、『わたし』をはねとばし、まるでバネ仕掛けの人形のように起きあがった。ただ、その後が続かない。そのまま、誰もいない席に視線を縫いつけ、硬直していた。
「……あら? 委員長じゃない……」
「……はい……?」
おそるおそる、視線だけを横の扉にやると……そこには、『彼女』がいた。
「委員長、何してるの?」
『彼女』はごく何気ない雰囲気でわたしに訊く。
「あ……あ……あなたは?」
もちろん、ありのままを答えられるはずはない。わたしは、時間を稼ぐために、疑問を『彼女』に返した。
「私? ちょっと、プリントを忘れちゃって……宿題ができないから」
優等生の『彼女』らしい。わたしだったら、あきらめて、提出日当日になってやるだろう。
「そ……そう……。あ、わたしは……その、ちょっと考え事があって……」
「考え事?」
「う……うん。ほら、わたしホームルームとかで進行役やってるでしょ? いつも張り切ってるけど、ちゃんとみんな聞いてくれてるのかな……って……最近、気にしてるんだ。
……誰もいない教室を見ると、ちょっと思い出しちゃって……」
わたしは、ようやく適当な言い訳を見つけ、『彼女』に言った。もっとも、すべて出任せじゃない。実際わたしが時々気にすることだし、『わたし』にとっても、『注目されなくなる』ということは、切実な問題だからだ。
「……そんなこと、ないんじゃないかな」
うつむいてしまっていたわたしに、『彼女』の声がかかる。
「知ってる? 委員長、最近変わったって評判なんだよ。声に磨きが掛かって、無駄がなくなったような気がする……って」
「えっ……」
「委員長の方を自然と見ちゃうような声だ……ってさ。うふふっ……」
わたしは驚いていた。にっこりと笑う『彼女』も珍しいし、こんなくだけた言い方を聞くのは、初めてだからだ。
「私も思うよ。最近の委員長の声、惹き込まれるみたいだなって。なんだか、艶っぽささえ感じるな……って。……っと、あったあった」
教壇に立ちつくすわたしをよそに、『彼女』は、自分の机をあさり、目的のプリントを鞄にしまいながら言った。
「だから、あんまり気にしない方がいいよ」
「う……うん……」
「戸締まり、よろしくね」
そう言い残して帰るかと思われたとき、『彼女』は思い出したように振り返り、こんなことを言った。
「ねえ委員長。こんな言葉、知ってる?
『目の前が果てのない闇であっても、見上げてみれば、それは星のある夜だったということもある』
…って」
「えっ…?!」
突拍子もない『彼女』の問いに、わたしはさらに混乱するだけだった。最近観たドラマから始まって、国語の文学作品、英文法の例文、歴史上の偉人の言葉……知っている限りの知識を総動員しながら考えたけど、分からなかった。
「ちょっと……わかんない……」
「うふっ……でしょうね」
白旗を揚げるわたしに、彼女は、ちょっと得意げな顔で返す。
「どっ……どういうこと?」
「だって、アタシが考えた言葉ですもの」
「あ……」
「考えちゃった? ごめんね、意地悪して。じゃあ、また明日……」
くすくすと笑いながら、『彼女』は教室を出ていった。

「…………」
わたしはただ、ぽかあん……とするほかなかった。
外は黄昏。気取って言うなら、逢魔が時。
まるで、『彼女』そっくりの何かに化かされたような……そんな気持ちだった。それほど、さっきの『彼女』は、普段は見せない色々な表情をした。そう、一瞬だけ『アタシ』という、別人ではないかと思えるほど……。

『目の前が果てのない闇であっても、見上げてみれば、それは星のある夜だったということもある』

『彼女』が作ったという、あの言葉が頭をよぎる。
その言葉を思うと、なぜだか安堵感がわき上がってきた。『彼女』の、あの悪戯っぽい笑みとともに、穏やかな気持ちになれた。おかげでわたしは、「ほうっ……」というため息の後、ようやく硬直から解け、後片付けに掛かることが出来たのだった。

教卓の上では、すっかり拭き忘れている『わたし』のよだれが、茜色の夕日を受けて、やけにキラキラと光っていた。

わたしには、それが異様なほどにまぶしく思えた。

つづく

 

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