お呪(まじな)い~コレクション・ハウスの夜3_1

1.イシの部屋

 教科書の落書き。無くなる小物。椅子の上の画鋲。飛んでくる輪ゴム。繰り返される悪口。根も葉もない噂。デジタルで流れる個人情報、淫らな嘘。意味のない電話。嗤い声。扉に挟まれた黒板消し、バケツ。身勝手な因縁。
……『いつものこと』だった。眉一つ動かさない。こんな風に、嫌がる素振りを見せなくなったのはいつからだろう? ……その疑問さえ、既に過去の物のようだ。
由佳は、いつも無表情だった。放って置けばいい。下手に反応すると、それで相手はつけあがるのだから。放って置けばいい……。だが、その、ささやかで、大量のいたぶりは、止まなかった。周りは、知っているのだ。その態度が、強がりである事を。

せわしなく噛む爪。爪の周りの肉は、10本全て赤く腫れ上がり、血が滲んでいる。それでも由佳は、その傷がふさがるたびに、前歯でかじり取る。
シャープペン等で皮をほじり出す。またバイ菌が入り、化膿し、腫れる。指先は、既に感覚が無くなっている。肉は根本までめくれて、爪がぐらついている。今にも落ちそうだ。そのかろうじて指の肉に張り付いている爪は、異様に波打ち、歪んでいる。それがなければ、その下に続く手は、しなやかで美しい、という形容ができるだろう。

知らずに何本も抜いている前髪。前髪は、一部が薄くなっている。退屈だと思うとき、つい、手が伸びる。後ろできちんと束ねた髪の、おでこのあたりではねた部分。始めは指でもてあそび、やがて一本、二本……毛根の透明な脂、あるいは血とともに、ぷちり、ぷちりと抜けていく。気がつけば、数十本が机に散乱している。その、抜いていく感覚が、痛がゆい様でおもしろく、つい、繰り返す。何故かだんだん可笑しくなってきて、クスクスと笑いながら。

カタカタと揺する足。短くすることなど考えたこともないスカートから伸びる足。前時代的、と言う言葉すら当てはまるような、白にささやかなワンポイントのソックスに包まれている。一時流行ったルーズソックスも、穿いたことがない。見た目の印象が悪いし、第一、『ルーズ=だらしない』という名前自体が気に入らない。
静かにしていれば、今時希有なその足も、何かにせかされるような足の揺れ―有り体に言えば、貧乏ゆすり―が、台無しにしている。

別段、由佳は学校側にとって都合のいい『模範生』になろう等とは考えていないし、先生に媚を売っているわけでもない。校則が理不尽なのは百も承知。厳密に見れば、由佳も校則違反―たとえば、寄り道や、学校への私物持ち込み等―を何度もしている。服装にしても、洒落っ気に全く無頓着というわけでは決してない。ただ、自分の求める美的感覚と、現在の流行がかけ離れている。それだけのことだった。しかし何より、どんな決まり事でも、そしてたとえ完璧でなくとも、その共同体にいる限り『ルールに従うこと、節度を保つこと』が必要であり、ここはその訓練だと割り切っているからだ。

肩で風を切り、異様に大きな歩幅で颯爽と―周りには、逃げ回っているようにしか見えない―歩きながら、そう心につぶやく。

始めのうちこそ、どうして自分だけが、と思った。しかし、誰に相談したところで周囲は変わらない。そして、ある一点を超えたとき、由佳は―見かけ上―冷静になった。そして、逆に周りを観察するようになった。
『どうして彼ら、彼女らはこんなことをするのだろう?』
自分の理解とはかけ離れた行動をとる周囲に対して、彼女の偏りかけた思考が答えを出すのには、暫くかかった。

『彼らは偉い。』

これが、彼女の出した答えだった。
彼ら、彼女らは全くの子供であり、満足に通常のコミュニケーションもとれないのだ。注意をされても言語を解さず、善悪の区別も付かない。この年齢になって、そんな精神レベルの人間が、仮にも義務教育を離れた選択制の教育課程である『高等』学校に、こんなにも多くいるなんて。これは凄いことだ。尊敬に値する!

人間の、理解できない物に対する逃避の方法にはいくつかある。
一つは、無条件に礼賛すること。
一つは、忌み嫌い、徹底して遠ざけること。
一つは、強引な理由を付けてでも、無理矢理受け入れることである。
……彼女がとったのは、三つ目だった。

しかし、たとえ彼女が『理解』したとは言え、普段の仕草は変わらない。
それに対し、周囲は『よい反応あり』と受け取り、手を緩めなかった。そしてそれは、彼女が帰宅して眠りにつくまで続くのだった。

由佳にとって、教室は『イシの部屋』だった。いつ終わるとも知れない、緩やかで冷たい拷問が続く『石の部屋』。そして、冷たい石のように固い心を持たなければいけない『意志の部屋』。