緊急避難と再利用

ニセ児童文学叢書
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「んむむむむむむぅ……」
白瀬 知美(しらせ ともみ)ちゃんは、顔を真っ赤にしてうなっていました。電車の中で数十分間、とんでもない我慢を強いられていたからです。
状況はいたって単純。電車が、めちゃくちゃに混み合っているのです。すし詰めもすし詰め、押しずし状態でした。

「ふぐぐぐぐぐ……」
どうして電車通学でもない知美ちゃんが、こんな通勤ラッシュの時間に電車に乗らなければいけないのか? それは、お母さんのお使いのせいです。普通の買い物なら、近所のスーパーに行けばいいのですが、今日はそうではありません。少し前に遠くのデパートで仕立てた、洋服を取りに行くのです。仕立てができあがった日と、創立記念日が重なったのが不運でした。せっかちなお母さんは『すぐに着たいわ』と言い、デパートの開店時間ちょうどになるように、知美ちゃんを一人で行かせたのでした。『一人で電車、乗ってみたいでしょ?』とお母さんは言うのですが、あのときは、窓から見える景色がおもしろかったから。今は、とてもそんなのんきなことを言ってられません。通勤ラッシュの噂は聞いていましたが、まさかこれほどとは……。見知らぬおじさんの汗の臭いと、見知らぬお姉さんの化粧品の臭いと、その他いっぱいで、知美ちゃんも、いつしかびっしょりと汗をかいていました。




「ぷはぁー……」
洋服の入った袋と、デパートでしか売っていない珍しい食材の入った袋を下げ、知美ちゃんは、ながぁいため息をつきました。
とにもかくにも、用事が終わったのです。後一時間電車に乗れば、家に帰れる。これだけ大変な思いをしたのだから、きっとお母さんはほめてくれるだろう。おやつを作ってくれるようにねだろう。ケーキがいいな、お母さん手作りのケーキ! 知美ちゃんの頭は、ケーキのことでいっぱいになりました。
ケーキ、ケーキ、ケーキ! 知美ちゃんは、わくわくしながら足取りを軽めていきました。




ケーキ、クリーム、紅茶、おいしい、おやつ……いろいろ考えているうちに、なんだかのどが乾いてきました。そういえば、来るまでにびっしょり汗をかいて、それから何も飲んでいません。知美ちゃんは、手近な自動販売機で500mlのペットボトルのお茶を買い、ごくごくとのどを鳴らして飲みました。お茶はとってもおいしく、元気がわいてくるようでした。元気いっぱいで食べるおやつは、もっとおいしいだろうな! 楽しみだな! 知美ちゃんの足取りは、ますますもって軽くなっていきました。




やがて、駅に着きました。
切符を買い、さあ、乗り込む前にゴミを捨てよう、ちょうど今飲み終わったし……そう思って、ゴミ箱を探したのですが……
「あれ?」
なんと、駅にあるすべてのゴミ箱に、封がしてあるではないですか。何やら、張り紙がしてあります。

『不審物が発見されたため、当分の間、ゴミ箱を封印します……うんぬん』

「こわいなぁ……」
しょうがないかな、と思い、知美ちゃんは空になったペットボトルを、自分の荷物の中に入れました。

ステップを踏んで踊るような音を立てて、窓から景色が流れていきます。
電車の中は、朝の混雑がうそのような静けさです。スーツ姿のおじさんや、しわくちゃのおばあちゃんが、ぱらぱらと座っています。

まったくのどかでした。大きな大きなゆりかごに乗って、家へ向かっているようでした。もし電車がこのまま空へ飛び立って、おとぎの国へ行ったとしても、知美ちゃんは不思議に思わないでしょう。そのぐらい、のんびりとしていました。

外の寒い空気も、電車の窓は通しません。お日様のポカポカとした陽気だけが、知美ちゃんに降り注ぎます。うとうと、うとうと……知美ちゃんは、なんだかとっても眠くなってしまいました。




「……あっ……?」
ふいに、知美ちゃんは誰かに起こされました。
あたりをきょろきょろと見渡してみても、手の届くところには誰も座っていません。それでも、知美ちゃんの目ははっきりと覚めました。寝ぼけ頭で考えて、知美ちゃんの血の気が、さあっ……と音を立てて引いていきました。
「おしっこ……したい……」
そうです。電車に乗る前に飲んだお茶が、今になって尿意をせき立ててきたのです。トイレ! と思えど、ここは普通の私鉄です。新幹線や特急列車のように、中にトイレはありません。通り過ぎていく駅の名前を見ます。なんということでしょう、まだ半分ほどしか来ていないではありませんか。そう思った瞬間、おとぎの国行き特別列車“知美号”は、暗黒の淵行き最終列車“絶望”に変わったのでした。

「…………!」
流れる景色も、今はやけにのろまに見えます。知美ちゃんの中にいる車掌さんは、さっきから、むやみやたらに鳥肌という名の汽笛を鳴らし続けています。
うるさい、うるさい、うるさぁい……! 知美ちゃんがいくら言っても、彼は全然聞く耳を持ちません。きっと彼は、目も耳もぽっかり空洞の、どくろのような外見をしているのに違いないのでした。

知美ちゃんは、もう泣きたくなってきました。このままでは、もらしてしまいます。ぱたぱたぱた……と足をもががせたところで、尿意がまぎれることも、まして電車のスピードが上がるわけでもありません。それでも、知美ちゃんはそうせずにはいられませんでした。

もぞもぞ……そわそわ……こつん。

「……?」
もがく足が、プラスチックを蹴るような音を響かせました。
それは、荷物の中に入れていたペットボトルでした。

ズッギャァーーーーンッ!!

知美ちゃんの脳裏を、背景に気合いの入った書き文字と雷鳴のエフェクト付きで、閃光が貫きました。

知美ちゃんは、頭のいい子です。それは、学校の勉強が特別にできるということではなく、創意工夫の点においてでした。ガラクタを再利用していろいろな道具を作ったりする……つまり、『違う使い道を考える』のが、とても得意なのです。

それが今、ひらめいたのです。
でも……あんまりです。あんまりにも恥ずかしいです。
確かに、それを実行すれば、この状態から解放されます。
『背に腹は代えられない』という言い回しを、いつだったかに習ったような気がしますが……それにしても……

がたんっ!!

「ひゃあっ?!」
突然、電車が大きく揺らぎました。本物の車掌さんのアナウンスが聞こえます。
「線路に置き石を発見したため、緊急停止いたしました……」
その後は聞こえません。もう、だめです。だって、さっきの衝撃でほんの少しもれちゃったんですから。

限界でした。
知美ちゃんは中学生。もう、おもらしをしてかばってもらえるような年ではありません。
ちょうど、列車は石を処理し終えたのか、再び動き始めました。怪しまれないように周りを見渡して、誰も自分に注意を払っていないことを確認してから、知美ちゃんは、意を決して立ち上がりました。

目指すは、列車の連結部。
両側に扉がついていますから、閉じれば部屋のようになります。中央にガラスの窓がついていますが、身を寄せればなんとか隠れられそうです。
扉のそばの席にも、誰もいません。電車が空いているのは、本当に幸いでした。

知美ちゃんは、その薄暗い小部屋の中にすべりこみました。ぶわぶわとしたじゃばらに背を預けて立ちます。そして、荷物の中からペットボトルと、ポケットの中からもう一つの道具を出しました。

それは、ケーキ用のしぼり袋と口金のセットでした。デパートでほかの買い物をしたときに、福引きをして当てたのです。五等の、いかにも安っぽい物ですが、十分です。知美ちゃんは、急いで準備にかかりました。

絞り袋に口金をはめ、じょうごの要領で、ペットボトルにはめます。
もう一度窓からこっそり周りを見て……誰も見ていないことを確認して、パンツを脱ぎました。

暗くて、どのあたりがおしっこの出口なのかはっきりしません。
でも、絞り袋の入り口はかなり大きいので、すっぽりと割れ目全体をおおうことができました。

後はおなかの力を緩めるだけなのですが、何せ場所が場所です。緊張してしまって、あんなに出したかったおしっこは、ちっとも出てきてくれませんでした。
「ふう……っふっ……」
あせる気持ちでいくらか力んで……
「あっ……」

しゅううぅうぅうぅーーー……じょぼじょぼじょぼじょぼ……

「あ……あ……あぁっ……!」
音が大きい! そう思いました。
ものすごいイキオイで吹き出すおしっこの音。
そのおしっこが、袋のビニールに思い切りぶつかる音。
さらに、口金にすぼまってペットボトルにたまっていく音。
全部がすぐ耳元で聞こえるぐらい、知美ちゃん本人には大きく思えました。

がたん……!

「ひっ……!!」
カーブを曲がったんでしょうか、列車が大きく揺れました。ぎしいっ……とじゃばらがたわみ、知美ちゃんはめいっぱいバランスを崩しました。
「うっ……ううっ……!!」
知美ちゃんは、根性で踏ん張りました。

じょぼぼぼぼぼぼ……

なのに、お股からは変わらない勢いでおしっこが出続けます。
頭と足はこんなに頑張っているのに、なんてのんきなんだろう……
知美ちゃんは、まるで人ごとのような笑いがこみ上げてくるのを感じていました。いえ、そのぐらい気持ちよかったんですね。

ちょろろろろ……

おしっこの勢いが、ようやく収まってきました。ぷううー……と、知美ちゃんが息をつこうとしたときです。
「!!」
一人のおじさんが、こちらの扉の方に向かってくるではありませんか!

ちょろ……ちょろちょろ……

「(はっ……早く止まって! 止まってぇぇぇーーーっ!!)」
そんなときに限って、おしっこは出尽くしてくれません。未練がましく大粒のしずくをたらしています。今パンツを上げれば、大きな染みが出来きるでしょう。それはスカートで見えないとしても、臭いがするかも知れません。コンマ何秒さえ惜しい。知美ちゃんは心底からそう思いました。

おじさんの距離は、あと2メートル? 1メートル? 何秒でこのドアを開ける? 私がパンツを上げるまで掛かる時間は? あれ? 絞り袋の後始末は? ここに捨てちゃう? ダメだよ汚い! おしっこの入ったボトルは? えっ? えっ? えぇえっ?!

見られる?? 見られる!? 見られる!!

それこそコンマ何秒の間に、知美ちゃんの頭には色んな事が駆けめぐりました。
でも結局、その思考の断片がまとまった答えは……

『万事休す』

……でした。
もういいや。訊かれたら、正直に全部話しちゃえ……!
知美ちゃんが、なげやりな気分になったときです。
「あっ……」
そのおじさんが、急に横を向いて縮みました。
どうやら、ドア近くの席に座っただけのようでした。
「はあぁーーー……」
知美ちゃんはどっと力が抜けました。と同時に、

ちょろっ……

……と、最後の一滴が緩んだ股からこぼれ落ち、全てが出尽くしました。
「あーー……」
「すっきりした」と「よかった」の言葉を一緒くたにしたため息をつきながら、知美ちゃんは、崩れ落ちそうになる身体を、連結のじゃばらに預けていました。

「ただ今から、車掌が車内に参ります。乗り越しその他、ご用の方は……」
再び聞こえる車掌さんの声。
こうしてはいられません。知美ちゃんは、急いで後始末をすることにしました。




知美ちゃんは、無事、家に帰ることが出来ました。
お母さんは出かけていました。どうやら、新しい服に合わせて美容院にでも行っているのでしょう。知美ちゃんは、少しほっとしました。

「…………」
自分の部屋。
知美ちゃんは、荷物の中から出してきたペットボトルを机の上に置き、椅子に腰掛けほおづえついて、ぼんやりと眺めていました。

改めて見ると、空だった500mlが、5分の4ぐらい戻っています。
そこに入って、窓から差し込む午後の日差しを机にゆらめかせているのは、お茶ではありません。
自分の、おしっこなのです。

ケーキ、クリーム、絞り袋、口金……じょうご。
お茶、ペットボトル……おしっこ。

「ぷっ……」
知美ちゃんは、何だかとてもおかしくなってきて、思わず吹き出してしまいました。
「あははははっ……!」
ひとしきり笑った後、知美ちゃんは、ポケットから丸まったティッシュを取り出しました。
おしっこが出終わった後、お股をふいたティッシュです。
眺めていて、不思議に思いました。
ふいたとき、なんだか割れ目がぬるぬるしていたのです。
おかしいなと思ってよくふいたら……それが、気持ちよかったのです。
まったく、変でした。
あんなに緊張したのに、あんなに辛かったのに、あんなにどきどきしたのに……?
考えれば考えるほど、変でした。
でも、ずっと考えると疲れそうなので、やめました。

「とりあえず、このおしっこ流してこようっと」
知美ちゃんは立ち上がり、ペットボトルを持ってトイレに向かいました。

「よく洗ってから、このペットボトルは捨てないとね……」
歩きながらの独り言に、でも……と、心の中で続けます。

でも、この口金としぼり袋は、よく洗って持っておこうかな。
何回でも、使えるように。

なんだか楽しそうな、知美ちゃんでした。

―おしまい
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