彼岸の彼方

後五分だ。

今なら、まだ間に合う。
気の迷いですべてを済ませて、この部屋を出てもいいはずだ。
「…………」
でも、私には動けなかった。『動きたい』という気持ちは、頭から手足に伝わるまでに行き先を忘れてしまう。そして結局、『のに』という否定の言葉になる。
この部屋を出たい。帰りたい。何の苦もなく、ここからは出られる。普通に、家に帰れる。『のに』、そうしたくない。後五分、待っていたい。もぞり……と動いたお尻が、腰掛ける豪華なベッドにきしみを生んだ。

ここは、ラブホテルの一室。
私はここで、待ち合わせをしている。
自分の、あさましい、きたならしい、でもどうしようもない欲望を満たす相手を待って、ここに座っている。
好奇心――いや、救いを求めるようにかけたテレクラ。静かな男の声だった。もちろん、お互いに面識はない。念のために、頭の中で声を照らし合わせてみる。私の回りにいる、いくらか下卑た知り合いの、誰とも違った。完全なる他人。だから、安心した。お互い、名前も含めていっさいの詮索をしないという約束で、会うことにした。
私はいったいどうしてしまったのだろう。なぜ、ここにいるのだろう?
数秒おきに、同じ疑問が数限りなく繰り返される。それでも、考えれば考えるほどに、身体が、どうしようもなく熱くなっていく。きっと、いまの私は、とてつもなくいやらしい顔をしているのだろう。ゆがんだ欲望を満たすために、見ず知らずの男に身をゆだねようとしている、愚かなメスの顔をしているのだろう。

……こんな姿を、彼には見られたくない。私は切にそう思った。
私には、心から愛する彼がいる。果てしなく優しく、包み込むように暖かい、大切な彼が。
彼には、何度となく抱かれた。そのたびに、私は幸福感でいっぱいになった。上手だというのもそうだけれど、普段の振る舞いそのままに、優しく私を抱いてくれる。身も心も、とろけるような快感。彼と共に、裸のまま、幸せな目覚めを何度迎えたことだろう。今、私が座っているベッドの上でだって……

時計を見る。後……二分。
彼は、サラリーマンとして忙しい日々を送っている。しばらく――三ヶ月ほど――地方へ出張だと彼は言った。彼は本当にすまなそうな顔をして、たっぷりと私を愛してから、去っていった。
とんでもない不義だ。私は……そんな彼のいない間をついて……!
誰か、私を叱って欲しい。悪い女だといさめて欲しい。子供のように、お尻を叩いて欲しい。この、みだらな尻を叩いて……! 思いっきり! はれ上がって形が変わるぐらいに! そして……そして……!!
「あっ……」
私は、唇をかんだ。なんていまいましい私の身体! お尻をめちゃくちゃに叩かれる事を想像して、濡れるなんて……!!
でも、それこそが私のゆがんだ欲望。容赦なく、お尻を叩いて欲しい。優しさなんていらない。物扱いされてもいいから、そうしてほしい。
「うっ……うぅっ……」
悔しさのあまり、涙がこぼれる。しずくのこぼれた先、時計の文字盤は……ちょうど、約束の時間になっていた。

その男は、本当に人間なのかと疑問にすら思えるほどだった。
電話口で話したときも、その声は、凍てついた湖の底にたまるヘドロのようだったけれど……。
肉付きは悪くないが、青白い顔。
サングラスに遮られ、全くうかがうことが出来ない眼光。
ポマードでべっとりとなでつけた髪はギラギラと光り、ゴキブリの羽を思わせた。
夏だというのに、黒いスーツの上からは同じく黒のサマーコートを羽織り、それでも汗一つかいていない。
なにより、まとう空気が冷たかった。触れる物すべてを凍てつかせるような、そんな雰囲気だった。
「…………」
「……はぃ……」
あごでうながされ、私は、男の膝に身体を乗せた。体温は感じられるが、やはり、いくぶん冷たいと思った。
『やっぱりいいです。ごめんなさい』
膝の上で言おうとしたその言葉は、結局新たな期待のわななきになってしまった。
「ひ……」
まるで包装紙をはぎ取るように、男は私のスカートを取り払った。そして、パンストごと、ショーツも。私の白い尻が、見ず知らずの男の眼下にさらされている。肉の奥、粘ついた欲望をたたえ始めているというのに……言葉も、ムードも、感情も、何もない。流れ作業で殺される、と殺場のブタ……そんなイメージが、まさに脳裏をよぎろうとした瞬間だった。

ぱぁーーんっ!

「あぐっ……!」
来た。緊張にとぎすまされた痛覚が、叩かれる衝撃を不必要なまでにくまなく舐め取る。痛い。とても。

すぱーーんっ!

思う間に、もう一撃。私の脳裏を、一つのイメージが何度もひらめく。
それは、海外の映画でよく見る、電気椅子での処刑シーン。

パァーーーンッ!

「いぎぃっ……!」
びく、びく、ばた、ばた……勝手に震える、私の身体。頭の中を、いくつもの電気椅子がよぎる。

べちぃーーっ! びたーーんっ!

「あ……あが……うっ……!」
お尻が熱い。エアコンが吐き出す冷気さえ、十一本目以降の指のようだった。はれ上がり始めているのが、自分ではっきりと分かる。
それでも、男は叩くのをやめない。
作業。まさに、その通りだった。

………………

「……!?」
定間隔で来ると思っていた私の意識が、不意に肩すかしを食らう。
それまでの間隔、かけるいくつかの間。
……まだ!? いつ……!?
もどかしい。すごく。早く叩いて! 私に、考える間を与えないで!
ぶるぶるとお尻が震える。奥は、じわじわと蜜があふれて、内ももに筋を引き始めているのが分かった。
『お願い……早くして……!』
口に出して言おうとしたところだった。

ずばんっ!!

「ご……っ!!!!」
肺中の空気を吐き出した。
痛覚よりも先に私にひらめいたのは……
怨嗟、侮蔑、殺意……男の手から伝わる、ありとあらゆる負の感情だった。

ばしっ!! ぎぎっ……!!

「はぎっ……!!」
叩いてから、わざと食い込ませている爪。文字通り身を裂かれる痛みに、私は限界までえび反る。

べしっ!! ずばっ!! びしっ!!

木か何かのように思われる、男の手。
引き裂かれていく、私のお尻。
悲鳴も何も、もうでてこない。
私は、かすかなうめきを上げて震えるだけの、肉袋と化していた。
「うあっ……」
突然、感覚が反転した。
どうやら、床に転がされたらしい。
続いて、扉の閉まる音。気配が、消えた。
終わった……ようだ。
「うっ……うぐっ……あぁあ……」
緊張の糸束が、ぷつりぷつりと千切れていく。同時に、機械仕掛けのように震え始める身体。歯の根、合わずに、息さえ、詰まり。
「うわあぁあぁあぁーーーーっ!!」
絶叫。悔恨。歓喜。自虐。声を振り絞り、よだれと涙と鼻水にまみれて床にのたうち回りながらも、私の手は……火照りきった性器に伸びていた。そして、いじめ抜くようにそこをこね回し、幾度となく達した……。

そして、一ヶ月ほどがたった。
ズタズタになった皮膚も、それだけあれば元通りになる。
私は……

スパーーンッ!! バシーーンッ!!

「いぎっ……! ぐ……が……っ!」
また、男の膝の上にいた。あの初めての時、床に、携帯電話の番号を記したメモが落ちていたのだ。
つくづく、どうしようもない女だと自分で思う。傷が癒えるまでの間、そのメモを眺めながらあの日のことを思いだし、どれほど自分を慰めたことか。そして、治りきると同時に電話を掛け……ここにいるのだ。
「うぶっ……ぐ……おえっ……!!」
どれほど待ちこがれてはいても、痛い物は痛い。胃液混じりのよだれを垂れ流し、恐怖に満たされ、涙腺よ枯れよとばかりに泣きわめき、一刻も早く逃げ出したいと思い……でも……『でも』、なのだ。
「はっ……はひっ……ひいっ……」
また、荷物のように転がされる私。存在そのものまで、男の冷たい手にうち砕かれてしまったような間。その時……何かが、私の身体に覆いかぶさった。直後に、ドアの閉まる音。
「……?」
それは、バスタオルだった。薄っぺらなはずなのに奇妙に暖かく、そのぬくもりは、私の奥深くに凍てつかせていたみじめさと罪悪感を、不必要なまでに溶かしだしてくれた。
「うっ……うああっ……あぁぁぁーーーっ……!!」
私はタオルを払いのけ、こぶしを叩き付けて泣いた。なぜかははっきり分からない。ただ、煮えたぎる欲望こそが冷たく凍てつき、私は胸をかきむしって、わめきながら、泣き続けた。

そしてまた、日が経った。
性懲りもなく、とは、私のことを言うのだろう。同じホテル、同じ部屋に、男と私は、いた。
同じ姿勢、同じ激痛、同じ背徳感、同じ……いや、また、違った。
「ひゃっ……!?」
数十回の責め苦が終わった後、私の、ごつごつに腫れたお尻に、何かが貼り付けられた。ひんやりと冷たい、シート状の物……湿布薬だった。
ごろり、と転がされる感触。反転する視界。ドアノブが回る音を、私は呼び止めた。
「待って!!」
「…………」
「どうして!?」
私からは、その一言しか出てこなかった。そうだ。どうして、私を気遣うような事をしてくれるのか。優しさを感じさせるのか。それでは……
「優しくされると、思い出す人がいる、って言いたいのかい?」
「……!?」
初めて聞く、直接の声。見た目より、ずいぶん若い。それより……!?
サングラスを外して、バスタオルで顔を拭う男。その下は……
「じわじわと冷徹さを薄めていって、どれだけ罪悪感に耐えられるか、試してみたんだけどね。以外とあっけなかったな……ふふふ……」
彼だった。私が愛してやまない、優しさの塊のような、彼の顔だった。
「あ……あ……あぁっ……」
「うろたえてるね。いい顔だ……」
「いぎっ……!!」
男……いや、彼は私を抱き上げ、回した手で思い切り腫れた肉をつかんだ。耳元に聞こえる、彼の声。
「今君を満たしているのは、恐怖? それとも歓喜かな?」
「あう……あ……あは……はは……」
私は、まっ白になった頭で、彼岸の彼方から笑い続けていた。一寸の力も入らなくなった股間からは、だらしなくオシッコがだだもれた。
「なんてはしたない女だ。きたならしく、みじめで、ぶざまで、いやらしくて、あさましくて……」
「あは……あはは……あへ……あははぁ……」
「でも、これで僕は君の全てを見た。全てを手に入れた。もう、逃がさないよ……」
「あへへ……うふ……んぐっ……!?」
ふさがれる唇。ゆっくり、押し倒されていく。

……その日の夜。私は、一人の男に犯されて、一人の男に愛された。
もう、逃げられない。
でも、それでいい。
彼は私の全てを見て、受け入れてくれた。
そして私も、彼の全てを見た。
どこかで望んでいた『もしも』が、
今、ここにある。

私も、彼も、逃げられない。
これで、いい。