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『初級立ちション講座』(1)

1.レッスン1

「うー……いー……」
 その日の朝早く、俺はしたたかに酔っていた。友人の下宿で、久しぶりに夜通しで飲んだのだ。さんざん馬鹿話をしながら、スナック菓子や缶詰やタバコを肴に、わざと安い酒をがんがん飲む。はっきり言って悪酔いの極致。体にいい事なんて一つもない。
 が、それがいいのだ。たとえば会社の同期連中と、勤務後に居酒屋に行くとしよう。確かに、年は近いし、同じ趣味の奴もいる。それなりに話は弾むが、やっぱり彼らは仕事仲間であって、友人ではない。そこはかとない遠慮ってものが出るし、個人的なことをとことんまで話し合えるわけでもない。
 その点、大学時代の友人―こいつは、本人いわく『大学から引き留められて仕方なく』まだ学生をやってる―は気が楽だ。俺が就職してからも、電話なんかで話し合い、大概のことはぶちまけあってる。
 そんな、ただでさえ気取らない仲に、安酒の泥酔という魔力が加わるのだ。その結果たるや、推して知るべし、だ。
 頭の中を、普段のうっぷんの代わりに酒の頭痛で満たして、しばし忘れる。やり方は極端だが、これも立派なリフレッシュだ。
 大抵は、夜中のワイ談が佳境に入った頃、どちらからともなく―ほとんどの場合、基本的に酒が弱い俺だが―そのまま寝入って、朝を迎える。目覚ましは、くしゃみか、頭痛。さもなくば、不自然な格好で寝たための関節痛だ。そのまま、モーニングコーヒー代わりのウーロン茶で、消化不良にあえぐ胃袋に、胃薬を流し込む。後は、垂れ流しのテレビの中、しけったツマミの残りをモソモソやりながら、抜け殻のように、午前中をぼーっとして過ごす。あるいは、始発の電車……当然、ぐっすり眠れるわけがないからな……で自宅に帰って、風呂に入ってから改めて寝るかのどちらかだ。
 その時の俺は、後者を選んでいた。早く家に帰って、汗とタバコと酒の臭いを洗い流して、さっぱりして眠りたい。この状態だと、軽く夕方ぐらいまで熟睡できる。普段は得られない極上の熟睡を、一刻も早くむさぼりたい。そう思っていた。
「(ふにゃははは……楽しみだなぁ……)」
 空はゆっくり白み始め、見事な朝焼けが、夢うつつの目に鮮やかだ。
「(きれいだなぁ……こういう景色が見られるのも、徹夜飲みの一つの楽しみだなよぁ……)」

 俺は、まだほとんど目覚めていない街の中を、ふわふわと歩いていた。

(ぶるるっ……)

「あれ?」
 その時、下腹部を中心にして、体中に鳥肌が走った。
「……まずい、ビールが残ってたのかな……?」
 慌ててあたりを見渡す。そこらのビルに駆け込もうにも、当然、まだ開いていない。友人の下宿まで戻るにはもう遠いし、駅までも同じぐらい距離がある。はっきり言って中途半端なところだ。ガマンは……出来そうにない。
 この鳥肌の津波は空腹感と似ている。そのココロは、認識したが最後、加速度的に激しさを増す……だ。
 この津波に耐えていると、やりたくもないのに、不格好な踊りを踊るハメになる。そしてその先は……やめておこう。あんまり想像したくない。
 そうだ。たとえ人通りが全くないとはいえ、そんな醜態をさらしたくない。いや、俺はこれから電車に乗らなければならない。公共の交通機関を利用するのだ! ご近所はおろか、千里を走ってあまねく伝わるような醜態は、さらすわけにはゆかぬのだぁぁぁっ……ああっ! 焦って思考が混乱してきた! 何ワケの分からない事を言ってるんだ?! 俺は!

「1・2・3・4……1・2・3・4……」
 足を肩幅に開き、右足を左足の前に出し、左足をクロスさせ右へ。右足を元の位置に戻し、最後に左足も戻す。これを、四拍子で繰り返す。いわゆる、『ボックス・ステップ』というやつだ。ダンスの基本だな。
「1・2・3・4……1・2・3・4……」
 っておい! 踊ってるよ俺! 手の振りまでつけて!
 むぅ、鳥肌の津波、恐るべし。
 ……だからそんな場合じゃないってばよ!

 状況を打破する選択肢は二つしかない。醜態を末代までさらすか、一瞬の醜態に耐えるか、だ。答えはコンマ何秒で出た。もちろん、後者だ。

(ばばっ!)

 素早く、再び周囲を見渡す。二日酔いでモヤのかかる視覚と聴覚を強引にひっぱたき、俺は人間ソナーになった。

「…………」
 視界、移動物認めず。
 聴覚、異常なし。
 よし!

(ぢー……)

 そそくさと近くの電信柱の側まで行き、ズボンのチャックを下ろす。おーおー、男の朝の生理現象と相まって、立派に自己主張してること……。後は、出口に向けて、意識をちょっと集中させて……

(じょぼじょぼじょぼ……)

 ……はぁー……ささやかな、しかし、間違いのない至福!
 あんなに悩んだ醜態うんぬんの事も忘れ、立ち上る湯気を見ながら、俺はほとんど公園の噴水と化していた。
 と、その時だ。
「(?!)」
 不意に人の気配を感じた。
 まずい! 誰かいたのか?! もし、朝のパトロールのお巡りさんだったら、軽犯罪法か何かで、最寄りの交番でモーニングコーヒーをいただくハメになるか……? そんなことを考えながら、俺の目線は、その気配の方を向いていた。

 そこには、もっと気まずい状況が待っていた。
 隣の電柱から、じっと見つめている子。ちんまりとした体に、ジーパンと、綿のシャツ。取り立てて目立つ服じゃない。どっかの男の子のようだ。
 まずいな、前途ある少年に、悪い大人の、あんまり真似してはいけない一面を見せてしまったか……と、そこまで考えて気がついた。
 ちょっと待て。あの子の姿、男の子にしては変じゃないか? あの顔立ち……腰から下のライン……手の小ささ……

(ぞざざざざぁぁぁっ!!)

 体中から血の気が引いた。
 女の子?!
 そうだよ、ショートカットで男の子っぽく見えるだけで、ありゃ女の子だ!
 ……どうするよ……男として、最低最悪のシーンを見られちまったよ……
 しかし、生理現象とは残酷な物で、俺のアレから出る排泄物は、勢いを弱めなかった。

(じょぼじょぼじょぼ……)

 こういうときは、時間の流れが嫌に長く感じる。
 俺は、心で苦虫を噛みつぶしながら、噴水にならざるを得なかった。
 が、俺の視線の先のその子は、俺を笑うでもなく、いぶかしむわけでもなく……そう、やけに目をキラキラさせて、俺の姿を見ていた。

 やがて、ようやく出る物が止まった。満足げなアレを、そそくさとチャックの中に押し込める。ええい、ここまで見られて、慌てて逃げるのも情けない。 俺は開き直って、
『みっともねぇトコ見せて、ごめんな!』
 と言う意味で、ちょっと会釈をした。すると、

(こくこく!)

 その娘は、キラキラした目でニコニコしながら、何度もうなずき、小走りに駆けていった。

「な……なんだったんだ……?!」
 予想しなかったリアクションに、しばらく俺は、その場にぼう然としていた。