0. あの門まで
彼は一体なんだったんだろうか。 私の方をずっと見ていた。 濁った光の目でもなく、 でも射るような物でなく、 あるいは好奇のそれでなく、 そう、それは助けを乞うための、懇願のような……目。 私に何か伝えたかったのだろうか。 もし、そうだとしたら、放課後の今、彼は待っているかも知れない。 一度、校門で見渡してみよう。 でも、 今日の校門はやけに遠い。 歩いても、歩いても、近づいてこない。 それに、どんなに歩いても疲れない。 まぁいいや。 どうせ見えているんだもの。 たどり着けないことはない。 彼は、そこにいるのだろうか? 1. 述懐
私は、小さい頃から人の目を良く気にする子でした。恥ずかしい、はしたない、という『恥』の意識を徹底してたたき込まれたのです。 そのためか、人付き合いも粗な物になっていき、私は本当の人付き合い、と言う物からは遠い人間になっていました。 しかし、一つの自覚が私を変えたのです…………。 過度の、いえ、もはや脅迫的潔癖性と思われたほど親の教育です。当然、トイレに関しては理不尽なほどでした。 母に言わせれば、『不特定多数の人間が使い、衛生管理のなっていない公衆便所など言語道断』であり、それは学校のトイレとて同じでした。 掃除をする、しないではなく、母にはその存在そのものが許せないといった風でした。 自然、私は外でどんなに便意が催してきても、ひたすら耐える様になったのです。 当然、トイレは朝のそれを除けば、帰宅後になります。 仮に、外で用を足し、帰宅時にトイレへ行かなかった日があろう物なら、きつくとがめられた物でした。 そんなばかな、と思われることでしょう。 でも、ひたすら抑え込まれ、それに異を唱える人間が回りにいなかったため、それが当然だ、という意識が私の中に育っていったのです。 勿論、ひたすら耐えるのです。トイレで用を足す時は至福の時でした。 それまで必死に張りつめていた心のつっかえ棒を、ちょん……とつついて壊すのです。凄い勢いで出ていく排泄物に、私は躯を振るわせ、肛門から魂まで一緒に出て行くような感覚に浸っていました。 ある日、学校から帰ってきたときのことです。母の姿が見あたりませんでした。買い物に行く時間でもないのに、と探していると、父の姿がありました。 私は少し驚いて、『おとうさん、お仕事は?』と尋ねる前に、父が言いました。 「おかあさんは、もういないと思いなさい」 「おかあさんはね、しばらく帰ってこれないんだ」 真剣な顔で、一言一言、噛み含めるように、父は言いました。 突然そんなことを言われても、何のことか解りません。 私はただ、 「ふぅん……?」 と、理解しかねる風で聞いていただけでした。 後になって解ったのですが、やはり母は重度の神経症……不潔恐怖でした。 世の中の全てが汚らしく思え、細菌に蝕まれる誇大妄想に怯え、全てを拒絶し始めていたのです。見かねた父は……親族と話し合い、母を精神病院へ入院させたのです。 外科的治療ではなく、心のそれです。いつ回復するのか解りません。 それから……母のいない生活が始まりました。 私は理不尽な強制から解き放たれたはずでした。 しかし、私は用便を我慢する、と言う行為を止めませんでした。 ……極限まで我慢している、あの脂汗の滲む感覚、大腸の便が口まで逆流するような錯覚を覚えさせる吐き気……そして何より、いざ排泄するときの、五臓六腑が全て液体と化し、体中の穴と言う穴から出ていくのではないかという、あの開放感……私は、それらの感覚の虜になっていたのです。 いえ、気持ちの面から考えると、これまで抑圧され続けて育ったためか、『自分で支配できる他の物』がなかった私にとって、『排泄物』は初めて、『自分の意のままに出来る他のモノ』であり、それを自分の意志で『支配』する事に、喜びを感じていたのかも知れません。 私は、『排泄』と言う行為に、『支配』するというサディスティックな願望と、『耐える』と言うマゾヒスティックな願望の両方を、知らずのうちに満たしていたのです。 2. 楽しみ
『性』と言う物を意識し始める年になると、その我慢が、はっきりと『快感』になっていくことを認識しました。 しかし、大きい方をあまり我慢しすぎると体に悪いと言うことも解ってきたので、小さい方で「楽しむ」事にしました。 例えば、家を出る前にたくさんお茶を飲んだり、登校途中でジュースを飲んだり……そして、始業してから、一時限目は我慢するのです。授業中、不定期に襲ってくる尿意が私をなぶります。そして、頭の中が真っ白になった頃、先生に頼んで、授業中にトイレに行かせて貰うのです。 休憩時間まで我慢してもいいのですが、もう一つ別の「楽しみ」のため、敢えて授業中に行くことにしています。 ……全神経を尿意との闘いに使ったのです。視界が歪み、足腰はふらつき、壁にもたれ掛かるようにして歩きます。そして襲ってくる、言い様のない吐き気。さらに、我慢している尿が、指先の細かな血管の一本一本にまで流れていくのではないかという錯覚。 でも、トイレが近くなるにつれ、どうしようもなく胸が高鳴るのです。 壁一枚隔てて授業中だという背徳感。 下着をびしょびしょにしてなお、意に反して漏れしたたる私の汗ともおしっこともつかない液体。 それらは太ももを伝って流れ落ち、まるで軟体動物が這った後のように、私の後に光る筋を作っています。 「(今、この瞬間、たとえば火事や地震が起こって警報が鳴り響いたらどうなるだろう……私のいる廊下にどっと皆が逃げ出して来たら……?)」 自らを戒めるように、また、今私を襲っている聞き分けのない苦痛をあおるように、わざとそんな事を考えます。 『ヂリリリリリリリリリィィィッ!!』 私の鼓膜を破るように、ベルの音が頭の中で鳴り響きました。 その瞬間に、私の身体は忌わしい排泄物の意志に乗っ取られます。 「あ…………あ…………あぁ…………っ……!」 体中に流された電気が一点に集まるように、耐えようのない苦痛を伴ってそれは私の膀胱に集中します。 思わず廊下に膝をつき、肺が破裂しそうな勢いで、私は音にならない声を絞り出します。 がやがやと飛び交う皆の声、椅子や扉がたてる不快なノイズ…… はじけるように教室から、みんなが廊下へ逃げ出して来ました。 避難する彼等の行動は、私の中の熱いオシッコが持つ願望そのものです。 ガクガクと震える膝から伝わる振動が、私のもう一つの遺伝子に新たな命令を与えました。 ひくひくとけいれんするような数瞬の抵抗の後、まるで水風船をはじけさせるように、私の股間から液体がほとばしり出ます。 「あぅうっ!! ……あ……あ…………あは………………」 永遠にも思われる長い放出の中、私の事をちらちらと横目で眺めながら、みんなが非常口に向かって逃げてゆきます。 汚物を見るような視線を感じながら、私はいつも以上に満ち足りた気分で、股間から溢れ出る体液を心地よく感じていました…… 『ビクッ!!』 遠くなった意識を奮い立たせるように、私の膀胱の痛みが訴えかけます。 はっと辺りを見回すと、廊下には誰もいません。 少しの間だけ、私は気を失っていたようです。 きっと子供がおもらしをしてしまうのはこんな感じの時なのだろうと、白昼夢の中の現実を思い返しました。 震える手で個室のドアを開けます。もどかしさは、スカートをたくし上げて下着を下ろすような、器用なことはさせてくれません。スカートごと脱いで、便座にかがみます。 そして…………心の中で、指をパチン! と鳴らし…………すさまじい勢いで、尿が便器の中へ吸い込まれていきます。 その時の私は 「あがぁあぁ……ぐっ……かひっ……くはっ……かっ……ふ……おごっ……ほぉぉ…………」 目はあらぬ方向を向き、だらしなく開けた口からは一筋の涎を流し、腰をくねらせ、莫迦(ばか)のような姿でいるのです。 しかし、それは何にも代え難い、最高の一瞬でした。 びくんっ…… と躯が震え、最後まで残っていた尿が出ていくと、しばしの虚脱の後、私は紙を持たずに股間に手をやります。 にちゃり…… 今し方出ていった尿の温かさと、別の分泌物の温かさが、手に伝わります。 ぬるり……と少し手にすくった後、それを口に運びます。 涎の溜まったままの口に、別の粘液と尿にまみれた指を一杯にほおばり、あたかもおっぱいのように、ちゅうちゅうとしゃぶるのです。 その時の私の顔は、それこそきっと、うっとりとした赤ん坊のような顔をしていることでしょう。一方で、空いている手は、アソコを一心に擦っています。 「んんっ! んぐっ! んむっ! ふぅぅ……んふぅっ!」 自らの作り出した息苦しさと、押し寄せる快感の波に、私は、えも言われぬ恍惚を感じるのでした。 「んぐっんぐっんぐっ!! ふむっ!! んんっ!!!!」 飢えた獣か何かのように、指をしゃぶり、凄い勢いで指と腰が動きます。 ……絶頂を迎えるのに、さほどの時間は掛かりません。 ですが、その一時は、私にとって永遠……そう、例えるならメビウスの輪の中に、私だけが居るような……そんな一時なのです。 それから、再びの軽い虚脱の後、少し乱れた服を整え、軽く手を洗って、教室へ戻るのです。全く手を洗わないと、匂いがきつかったときに回りに怪しまれるからです。でも、完全に洗い落としてしまうには名残惜しい気もします。そこで、軽く手をすすぐだけにして、教室に帰ってからも、時々、自分で匂いを楽しむのです。 ……もちろん、全く洗わないときもありますが。 3. 視線
そんなある日のことです。授業中、変な視線を感じました。
視線の元を探すと、一人の男子でした。 取り立てて目立った存在でもなく、女子達の間でも話題にすら上らないような、本当に「普通の」男子です。 私が気づいたと思ったか、向こうは慌てて目を逸らします。 ……私は妙にその視線が気に掛かりだしました。 視線がまとわりついて嫌だ、と言うのではありません。その視線の種類です。恋慕や、あるいは憎悪の類の物ならば、視線の元へ行って、問いただす事もできるでしょう。 ですが、今私に注がれているそれは……そう、怯えながら何かを問いかけるような、そんな視線でした。 休憩時間などに、友人達と他愛のない話などをしているときも、話がそこに及びました。 「ねぇねぇ、あそこの席に座ってるアイツ、さっきからずーーっとアンタのこと見てるよ。」 「気があるのかな?」 「もしかして、イキナリ告白されたりなんかして!」 「アハハハハッ!」 私への視線が、ただの「視線」にしか思えない彼女たちは、そう言って無邪気に笑うだけでした。ですが、明らかにその視線には、何か切迫すらした物があるような気がしてなりませんでした。 そしてその日の終業まぎわのことです。私は、ふとそれまで感じていた視線を感じないことに気づきました。そうなるとおかしな物で、それまであまりいい思いはしていなかったはずの視線の主を、教室を見渡して探しました。 ……相変わらず彼は自分の席にいましたが、こちらの視線に気づくと、今度は必死に目を逸らそうとします。 突然彼の態度が変わったことに多少いぶかしみつつ、私は、授業は上の空でとりとめのないことを色々と考えていました。 その思考は、ついさっきやった、いつもの「楽しみ」のことに及びました。 一部始終の感覚を思い起こし、再び躯が少し震えます。 その時、一つのことが思い当たりました。 一通り終わって、トイレを出るときです。まだはっきりしない私の視界に、確かに「彼」がいたことを。 不審に思っているんだろうか。しかし、それにしてはあの「目」は好奇の物や、軽蔑の物ではない。何か言いたそうにも思えた……。 そしてその日の放課後。「彼」を探して声を掛けてみようかどうかと迷っているうちに、窓から、凄い速さで走って帰る「彼」の姿が見えました。 『ああ、やっぱりそうか』 何が「そう」なのか解らなかったのですが、私は明日の放課後、彼に話を聞いてみようと心に決めたのです。 ・
・ ・ そして、その日。校舎を出て、門までの道。 彼は、まだ居るだろうか? ひょっとしたら、待っているかも知れない。 早く話を聞いてみたい、そんな気がする。 でも 今日の校門はやけに遠い。 歩いても、歩いても、まだ遠い。 でもいいや、どうせ見えているんだもの。 彼は、そこにいるのだろうか? 4. メビウスの輪
全てを消し去る『光』は、幾万、幾億の針となって降り注ぐ。
その針は、モノの想いを地に縫いつけ、影をもねじって縫い合わせる。 放たれた想いはたどり着くことなく、メビウスの輪の中を循環する。 そして、届かぬ想いに嘆くモノ達の、幾万、幾億の『叫び』が、地の縫い目から滲み出し、『雲』と呼ばれていたモノを形作る。 その『雲』からまた、幾万、幾億の『雨』が、激しい音を立てて、何も、ない、大地に、振り注いで、いた……。 ―了
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