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『幻影』

0.校門にて

 僕はここで、あの娘を待っている。
 今日こそ言おう、
 『一緒に帰りませんか』……と。
 放課後の今、この校門で、あの娘が出てくるのを待とう。

 不思議だけど、どんなに立っていても疲れない。
 暑くも、ない。
 お腹も、減らない。
 日も、沈まない。
 でも、そんなことはどうでも良い。

 今日こそあの娘に話しかけよう。
 『一緒に帰りませんか』と……。

1.困惑

 僕があの娘に会ったのは、学年が上がったクラス替えの時だ。
 確かにその娘は可愛かったけど、その時は一目惚れとか、そんな感情は持たなかった。
 僕自身特に取り柄のない人間だったし、それからも、アタックしてみようとか、全く思わなかった。
 でも、なんだか僕にとって不思議な印象を持った娘だった。
 僕にはそれが何か解らなかった。
 そう、「あのこと」があるまでは……。

 あれは、日差しが強くなり始め、そろそろ夏が来たんだな、と思わせる日だった。

 その日、僕は朝から飲んだ牛乳のせいか、お腹の具合が悪かった。始業前にトイレに行っても収まらず、授業中もずっと腹痛を我慢していた。
 やがて僕の我慢も限界になり、先生に頼んでトイレに行かせて貰ったのだ。

 脂汗を浮かばせながら、トイレへ小刻みに急ぐ僕の視界に、一人の女の子が入った。

 ……それがあの娘だった。あの娘も授業中にトイレに立ったのだろうか。自分の便意を我慢するのに精いっぱいで、気づかなかったけれど。

 彼女の足どりはおぼつかず、壁に手をつき、躯を預け、脚を引きずるように歩いていた。
 僕には彼女がよほど具合が悪いように見え、自分の便意も一時忘れ、声を掛けようとした。『大丈夫?』と。

 その時だった。僕は彼女の様子が少しおかしいことに気が付いた。
「くっ……はぁっ……ああっ……ん……っはっ……」
 確かに苦しそうだが、何か違う。その声は……まるで……
『まさか……な』
 クラスの悪友に見せて貰うような、下手なエロ本の記事まがいの妄想を慌てて打ち消し、自分も早くトイレに行こうと歩を進めるために、視界を廊下に移した時だった。

ふと、彼女の足下が目に入った。その足は……何かを消しながら歩いていた。

 再び足元を良く見ると、彼女の脚には、きらきらと輝いて見える濡れた筋が幾本かと、スカートの中から、ぱたり……ぱたり……と、滴る雫。
 そして、彼女は……その廊下に落ちた雫を、上履きで消しながら歩いていた。

『まさか、そんな!』

 打ち消した妄想に近しい推測に呆然とする僕には初めから全く気づかず、彼女は女子トイレの中へ入っていった……。

 その日は、それからずっと考え込んでしまった。
 どうして彼女は、半分漏れるまで我慢していたんだろう。
 いや、それよりも……
 どうしてあんな、切なそうな顔をしていたんだろう?
 そんなことが、ぐるぐると僕の頭の中を駆けめぐり、ふと、あのときの彼女の横顔が思い浮かんだ。苦しそうな、でも、我慢からの解放とは違う何かを待ち望んでいた様な、艶っぽい様な、でも、どこかに他人を受け入れない怖さがあるような……。

 考えれば考えるほど、僕は、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。
『どうしてこんな気持ちになるんだ?』
 それすらも全く分からない。じりじりとした気持ちのまま……僕は、いつの間にか眠っていた。

2.確信

 次の日。やっぱり昨日のこともあって、彼女のことが気になりだした。
 僕と彼女の席は離れていたけど、僕は遠目にずっと彼女の方を見ていた。
 友達と談笑する姿、真剣に授業を受ける姿……。どれも、昨日のあの顔とはかけ離れている。そう思い出すと、昨日の光景が思い出され、妙に恥ずかしくなって勝手に顔をそむけてしまう。
 あんまりずっと見ている僕が変だったのか、彼女の回りから僕の方に、ひそひそとした話し声が飛んできたが、それでも僕は彼女を見てしまっていた。

 そして、休み時間。チャイムが鳴ると同時に僕の足は……何故か女子トイレに向いていた。さっきの授業が終わる寸前に、彼女がトイレに立ったからだ。

 何があると解っているわけでないのに、僕は早足で女子トイレまで歩いた。
『僕は何をしてるんだ?』
 たどり着いた扉の前で立ち尽くし、僕は自問した。昨日のような光景が再びあるとは限らない。でも、『何か』があるという奇妙な確信だけがあった。

 ……はたして、彼女が出てきた。
『あぁ……』
 僕は……何かが崩れていく失望感と、やっぱりそうだったのか、という確信を得た満足感が同居する、視界が歪むほどの奇妙な感覚にとらわれてしまった。

 ……彼女は恍惚とした表情を浮かべていた。スカートから伸びる脚には、昨日と同じ、やけに輝いて見える幾本かの雫の筋があった。そして彼女は……かすかに濡れている指先の臭いを密かに嗅ぎ、更に恍惚とした表情になっていたのだ……。

 彼女の指を濡らしていた物が何かはすぐに解った。彼女が昨日と同じように僕に気づく風もなく、そばを通り過ぎていく時、確かに臭った。
 それは、紛れもない、おしっこの臭いだった。

 僕は女子トイレの扉の前にずっと立っていた。呆けた顔で、後から来た別の女の子たちの、いぶかしむ声さえ耳に入らず、ただ、立ち尽くしていた。

3.愕然

 その日は、何故か逃げるように家に帰ったのを覚えている。別に女子トイレを覗いたわけでもなく、特にやましいことは無いはずなのに、家まで全速力で走って帰った。
 それは……そう。『見てはいけない物を見てしまった恐怖』と言えるかも知れない。一目散に自分の部屋にこもり、ベッドに突っ伏して、僕は震えていた。

 その恐怖は、得体の知れない物だった。
 別に、授業を抜け出して、トイレで淫らなことをするのが許せない、という様な、変に道徳ぶった所から来るでもなく、おしっこを我慢することと、その臭いに興奮する、という世間一般からすればアブノーマルと言われる性癖に対する嫌悪感による物でもなく、とにかく得体の知れない恐怖だった。

 布団を頭までかぶり、固く目を閉じても、彼女の、あの恍惚とした顔と、脚に輝いて見えた雫の筋が脳裏に浮かんでくる。
 そのうち、通りすがりに臭ったおしっこの臭い……あの香ばしい香りまでが蘇ってくるようだった。

 ……えっ?

『香ばしい……?』
 今僕は「香ばしい」と言ったのか?「臭い」じゃなくて? 慌てて自分で問い直し、あの光景を反芻してみた。

 あぁ……僕はどうかしてしまったのか?
 何度思い返しても、あれが「良い香り」に思えてきた!
 どうしてだ……どうしてだ……
「おしっこの臭いなんて物は……」
 そう呟きながら、僕は何を思ったか、穿いている自分のブリーフを脱ぎだした。
 勿論、一日穿いていたのだから、汚れている。それを僕は……顔に当てた。
「くんくん……ほら、やっぱり臭い。くんくん……ほら。くんくん……」
そう呟きながら、僕は何度も何度も臭いを嗅いでいた。
「くんくん……ほら、こんなに匂う……もっと確かめて……ああ……いい匂いじゃ……?」

 僕は愕然とした。
 自分の汗と尿の匂いが、「いい匂い」に思えてきて、それが彼女の放った匂いと重なり合って……
 いつしか僕は、自分の性器を勃起させていた。

「………………」
 信じられないほどに怒張した自分の性器を見おろし、も のすごい速さで脈打つ心臓を感じながら、僕はまた、呆然としていた。
 どんなポルノ雑誌を見ても、今までこんな事にはならなかった。

 ……おそるおそる、僕はそれに手を伸ばした。

 びくんっ!

「はっ!」
 体中を痺れが走る。
 自分の物が……こんなに……痛いほど張りつめたことはない。
 僕はベッドに腰掛け、一心に自分の性器をこすっていた。
「あっ……あぁっ……ンッ……はぁぁ……」
 傍目には狂態でしかない自分の姿を見たくなかったのか、固く目を閉じた瞼の裏に、彼女の、うっとりとした顔と、足に伝う雫が、何度も何度も、火花のように甦る。そのたびに、ますます僕の性器は張りつめていった。
「あッ……いっ……痛いっ……は……あっ……うっ……はぁぁぁぁっ!!!!」
 いつしかベッドに横たわって、がくがくと腰を振り、女のような嬌声を上げながら、僕は自慰にふけっていた。

 僕が勝手に想像した、彼女の嗜好と歪んだ快楽が、頭の中をどろどろと満たしてゆく。
 堪えきれない興奮と刺激。
 僕の中には、数瞬のうちに射精の限界量が充たされた。
 いつもならその場で果ててしまっているはずだった。
(ま……だ……よ…………)
 頭の中の彼女の、苦痛とも、悦びともとれそうな声が、現実の僕にも伝わってくる。
「う……ぅうっ!!」
 想像の中の彼女の苦痛は現実の僕にも伝わり、内側から飛び出そうとするものをも制止させた。
 その苦痛を一緒に味わっている彼女も、歓喜の表情で苦痛に悶える。

(そう……、我慢……しなきゃ……。わ……わ……たし……も……くるしい……の……)
 妄想の彼女は脂汗をかきながらも、うつろな瞳で僕の事を見守っている。
「は……はぁ……はぁ……」
 今にも溢れだしそうな思いを、どくどくと音を立てて、彼女の苦痛に満ちた顔に向かって解放したかった。

 幾度となく、そんなやりとりを、想像の中の彼女とくり返す。
 次第に意識はもうろうとなる。その替わりに、彼女が内に秘めていた事、訴える事が出来なかった思いが……どす黒い雨雲のようなイメージをとって、僕の中に湧いてゆく。
やがて……

(あぁっ! ウ……ぅんッ!!)
「うわぁぁっ!!」
 ……彼女がオシッコを吹き出させるのと同時に、すさまじい勢いでもの凄い量の精液をまき散らし、僕は果てた。

「はぁ……はぁ…………あ…………」
 果てしない脱力感の中で、僕は妙に醒めた目で思った。

「やっと……わかった……」

 そうだ、彼女に感じていた、不思議な感覚は…………。
 僕と彼女は、ある意味で共鳴していたのかもしれない。 ……勝手な思いこみと言われればそれまでだけど、あの娘と話をしてみよう、してみたい、と僕は思った。
 そして僕は、明日の放課後、校門で待っていようと決めたのだ。



 そして僕は待っている。彼女に声を掛けるために。そしてこう言うために。

『一緒に帰りませんか。そして、良かったら貴女のこと、教えて下さい』

……と。

 僕はずっと待っている。
 ずっと立っていても、疲れない。
 暑くも、ない。
 お腹も、減らない。
 日も、沈まない。

 でも、僕は待っている。あの娘を……。

4.再び校門にて

 何度目かの、太陽が激しく照りつける時期がやってきた。
 日差しは地面に陽炎を作り、景色を歪ませる。
 しかし、それが『夏』という季節であることを認識する物は、もう、いない。

 一瞬の『光』が、全てを呑み込んだ。
 生ける物は全て消え去り、主を失った建物は墓標のように立ち尽くす。

 その町並みは、今にも再び動き出しそうで、もう、動かない。

 その一つに、学校があった。
 そしてその校門の前に、焼き付いた、影が、一つ。

 今、その、影が、揺らめいた、様に、見えた。
―了