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『がぼっ』(1)

1.びきっ

「……っくしっ」
 いつもの喫茶店の、いつもの席。そしていつものモーニングセットをパクつきながら、僕は大きめのくしゃみをした。
「っすぅ……ふぅぃー……」
 お気に入りの煙草の味も違ってるようだ。こういう時は……
「どした? 風邪か?」
 マスターがカウンター越しに声をかける。
 そのとおり。風邪の引き初めだ。
「ん……。秋用の布団、出し忘れてたよ」
「気を付けろよ。君はどうなっても良いが、他の客に移されると、俺が困る」
「えらい言われ様だよ。ったく……」
 そんな軽口をたたきながら、一方で僕は、いつもより速いペースでコーヒーを胃に流し込んだ。……良かった。香りが解らないことは無い。
 風邪の中で何が厄介かって、嗅覚が鈍るタチの物だ。コーヒーの味も解らないし、食事もあまり美味しくない。加えて、街で綺麗なお姉さんを見ても、香水の香りが解らない。……っと、これは余談。
「とっとと帰って寝るよ。じゃ、ごちそうさま」
「おう。またな」
 マスターのやりとりもそこそこに、僕は勘定を済ませ、店を出た。

「ぃよーいーしょっと……」
 はた目にはどこの年寄りかと思うような仕草で、愛用の自転車に乗る。伸ばした足を、大きく振りかぶるもんだから、かなり変だ。でも、染みついた癖という物の恐ろしさで、なかなか直らない。
 ……良かった。今日は、誰も蹴らなかった……。
「へくしっ」
 またいだときにもう一発。

 びきっ

「んっ?」
 あ、しまった。手を口にやるの忘れてた……と思っていたところに走る、鈍い電流。この痛み方は……まずい。今回の風邪は、肩と関節に来るタイプだ!
 この手も、気管支系の風邪同様、嫌いな風邪の一つだ(もっとも、『好きな風邪』なんて無いけど)。
 どうしよう……。家に帰って、風呂支度をして銭湯に行こうか?
 ダメだ。銭湯に行くと、『一人神田川ごっこ』をしたくなる。
 ちなみに『一人神田川ごっこ』とは、銭湯から出たところで、人待ち顔の女性を見つけて「待った?」とか言って声をかけるナンパ方式だ。成功率は、限りなく低い。と言うか、都合良く入り口に好みの女性がいる確率からして低い。待つのも手だけど、そうするとこっちの『洗い髪が芯まで冷えて』しまう。よって、成功した試しはない。
「だからといって、部屋のユニットバスなんて、ゆっくり浸かる以前の問題だし……湯冷めしない風呂……というと、温泉だよなぁ……。んー……」
 と、何気なく財布をのぞいてみる。中には、とっておきの福沢センセイが一人と、夏目センセイが二人。
「これっぽっちじゃ、温泉郷なんて行けそうも……」
 ないな。と、ぼやこうとしたときだ。
「あっ! ある!!」
 そう。近すぎて忘れていた。あんまりうっかりしてたんで、思わず大声を上げてしまった。そうだ。ここから、物の二時間ほどで行ける、れっきとした温泉郷がある。

「有馬温泉に行こう!」

 有馬温泉。神戸市内にある温泉の名だ。あんまり身近すぎて、行こうという気にすらならなかった。でも、こういう状況の時には、その近さが有り難い。交通費も、そんなにかからない。
「よし、そうと決まれば……」
 僕は、家へ向かう自転車のルートを変え、近くのJRの駅に向かった。

 神戸というと、港町というイメージが強いけど、それは海に近い南側のことだ。北の方、山側へ行けば、のどかな山の風景が広がっている。
 さっき出た喫茶店から、自転車を十五分ほどこいだ所にある、JRの駅から乗って三十分。さらに私鉄に乗り継いで三十分。乗り継ぎの待ち時間を含めても、二時間と掛からない。
自転車をこぐ足は、駅へ近づくほどに軽くなっていった。